懐かしの古写真【駅・学校・公共施設】

【館林駅】

昭和25年館林駅駅昭和30年

上)昭和25年、館林駅前広場。(「写真集・館林」川島維知編より)
下)昭和30年、館林駅東口上空(写真館林市情報広報課蔵より)
館林駅のシンボルである駅舎は大切にされていて現在も外観が保存されている。昭和25年の写真は戦後が感じられる。広場に集まっているの人のなかに戦闘帽を着用しているのがわかる。ボンネットバスが渋いね。
下の写真は昭和30年ころなので、とてもなつかしい。駅の南に東武鉄道の宿舎が建ち並ぶ。南小の同級生が何人も住んでいたので遊びにいったことがある。子どもの頃は迷路のような住宅だった。左下の線路下のガード(トンネル)も懐かしい場所。トンネルを抜けると日清製粉の工場がそびえていてその南は水田地帯だった。駅の東側に大きな建物が見えるが、それは榊原康政公が眠る善導寺。(2012年9月17日)駅ネオン看板[昭和30年ころの駅前ネオンアーチ]タヌキのネオン看板の記憶が残っている。確か、尾が上下に動いたような・・・・。

【南小学校】

現在の第二小学校。
館林市立南小学校。通称・南校(みなみこう、なんこう)と呼ばれた。昭和4年に建てられた校舎。
正田美智子様が館林疎開中に通った小学校として有名。
校門の左側に建つ木造の校舎は講堂。毎年、群馬交響楽団(群響)が演奏会に訪れ演奏した建物だ。講堂の北側に家庭科教室があった。それと、小さな図書室も。(図書委員だったので懐かしい)
館林市南小学校
写真は昭和39年の卒業アルバムより。(竹組37名)
▲ 卒業アルバムの竹組集合写真は懐かしい。50年以上たった今でも、ほぼ全員の名前が言える。
(例えば、前列左からオイヌマ君、フナバシ君、スナガ君、下町の郵便局のナラヨシノリ君、ホソヤマ君だ。ナラ君の後ろが私だ。私の右、メガネの少年は川島自転車店のカワシマヒロユキ君。左はTSスポーツのイシジマ君だ。栗原先生を中心にして線対称の位置にあこがれのシライシさんがいる。嬉しいね。)2015年8月10日アップ。

南小懐かしの写真
(2015年8月サイトアップ)

●サイトを見てくれた読者(島田さん)からメールが届きました(8月17日)。
写真に写っている方々の詳しい情報がわかりましたので、まとめてみました。解像度もアップ。(8月17日アップ)
鶴生田川橋解説
▲中央スーツ姿の人物がメールをくれた島田さんのお父様。モスリン新道の島田経師屋さんです。
2017年10月 訂正!。菅沼正二さん、

(メールの一部をご紹介)-----------------------------(島田さんの記憶力に驚嘆!)
下町の鶴生田川にかかる「歩行者・学童専用横断橋」 完成、渡初め式の様子です。
木村純夫校長先生の後 南幼稚園の増田トシ副園長先生、園児や児童。後ろに背広姿の父が・・・
ガニ股歩きが特徴なので間違いありません。確かPTA 本部役員を担い、副会長兼文化部長でした。


【2017年10月。島田さんより訂正の依頼がありました。】(2017年10月23日訂正)
写真のPTA会長は島田さんでなく1代前の第9代PTA会長菅沼正二氏とのこと。訂正します。
半世紀以上前の写真。記憶違いがありますが訂正する記憶力も素晴らしい。

※二小校長・木村純夫先生がこの夏(2017年夏)99歳でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。
それにしても白寿とは長寿でした。

●南校、昭和38年度(1963年)教職員について」2017年10月、島田さんからの投稿をアップ!
昭和38年といえば、私が小六のときだ。館林市庁舎が完成した年でもある。翌年は東京オリンピック。昭和の元気が溢れていた。
皆小の先生方は担任だった先生を除いて名前は不明だった。
後輩の島田さんから送られたきた写真には克明に名前が書いてある。どこで調べたのだろうか。すごい。
そのままデータをアップします。54年も前の写真です。
昭和38年度の卒業写真ということは昭和39年の1月頃に撮影したかも。50年以上昔のことだ。
・・・光陰矢のごとし、学成りがたし。

昭和38年南小_教職員

【おまけ情報】 南校児童、夏の御用達。三の丸市営プール

33年市民プール

昭和33年、館林初のプールが完成。嬉しいことに徒歩5分の三の丸の敷地内にオープンしたのだ。
当時の学校にプールは無かった。上級生たちは渡良瀬川で泳いだらしいが、水難事故も多く、亡くなった子もいたのだ。渡良瀬川は川砂の採掘で川底が急に深くなりキケンという話だった。当然ながら川では遊泳禁止。海なし県の群馬で、川での遊泳禁止ということは泳ぐ場所がない。当時のこどもたちはほんとんど泳げなかったのだ。

小3の夏休み、市営プールに毎日通っていた。しかも朝一番でプールへ。誰もいないプールはきれいで気持ちよかったのだ。水を入れ替えたばかりの日は水温が低くしびれるような水だった。(当時の館林の水道は豊富な地下水だ。(サントリーやカルピスが工場を造った理由) 館林のプールはサントリー風に言えば、「赤城山系の天然水」ミネラルウォーターで泳いでいた。リッチなプールだった。職員が殺菌のため塩素を混ぜていたが・・・・。)
小3の夏は写真の子どもプールで遊んだ。泳げなかったのだ。
次の夏、突然泳げるようになった。今でもそのときの感覚を鮮明に覚えている。(平泳ぎだった)
スイミングスクールもなく、教えてくれる人がいないのが当然だった時代。それでも子ども達は自己流で何とか泳げるようになるのだ。
下の写真のどこかに私がいる可能性が高いね。(写真の出典は「写真で見る館林」館林市発行より)

【南保育園】

南保育園
昭和27年4月開園の南保育園は私が1年だけ通った保育園。正面玄関が懐かしい。門を出ると、道路の端が小川のような側溝があり(もちろん土)遊びながら帰った。当時のブームは黒光するドロだんご作り。
南保育園卒園式▲昭和32年度終了記念の写真。(昭和26年4月〜27年3月までの同級生) 前列の園長先生みたいな人(当時の認識)は遠藤市長(初代館林市長。この写真当時は58歳。私より年下じゃないか? 光陰矢のごとし!)。
後列に職員の先生方。左から3番目が担任の藤倉先生(ひまわりのような先生だった)。

 南保育園〜遠足昭和32年▲昭和32年(1957年)9月30日。南保育園の遠足。桐生新川公園?あまり記憶がない。 ぼ〜っとしていた園児だったので、さすがに記憶が薄い。児童数を調べると35名。 年長さんだけで3クラスもあった計算になる。パワフルな時代だった。
 しかし、胸の名札が大きすぎる。ハンカチを胸につけているみたいだ。
遊園地の遊具(飛行機)の形状が戦闘機を思わせる。ファンタジー的要素はまるでなくて、ミサイルのようなデザインだ。
しかもちゃんと車輪が付いている。戦争体験がリアルな制作者が造ったのだね。時代を感じる作品。
(2015年8月10日アップ)

【幼稚園】

幼稚園
北幼稚園は大正12年4月1日開園。
南幼稚園は昭和24年5月5日開園。正式名称は館林南小学校付属幼稚園。南保育園の東側にあり、ブロック塀で仕切られていた。