懐かしの古写真・館林のお店/会社

2015年9月 「山本のパン店
2014年01月 「内田屋染物店
2013年08月 「分福ヘルスセンター
2013年01月 「かどや薬局
2013年01月 「とりせん
2013年01月 「館林うどん
2013年01月 「邑楽パン
2013年01月 「小池商店

【山本のパン店(肴町)】 2015年9月30日 up
 2015年9月の同窓会で50年ぶりに(半世紀!!)山本さん(南保/南小/二中の同級生)と再会。 山本さんは現在、東京にお住まいです。 山本さんにお願いして館林の実家に残る昔の写真をお借りしました。

館林一の歓楽街だった肴町。料亭あり、芸者さんが通った二業見番があり、館林クラブという映画館あり・・・、
その一角に山本パン屋さんがありました。同級生のパン屋さんなので、よく知っている。
まずは写真をご紹介。 懐かしい。山本パン屋昭和31年▲昭和31年開店の「山本のパン屋」開店記念写真。当時はチンドン屋さんに開店気分の演出を依頼したのです。まちのごどもにとってチンドン屋さんは路上のエンターテインメント。にぎやかで楽しい。しかし、もの哀しさも強く感じていた。
下の拡大写真は店主の山本さん(中央立ち姿)。しゃがんでいる白衣の男性は店の職人さんだそうです。割烹着の人は山本さんの奥さん。 同級生山本さんのお母さん。
1階は店舗とパン工房。2階が住居。肴町の通り側の2階に洗濯物を干すベランダがあったという。山本パン屋拡大▲道路が工事現場のように荒れているのは、肴町の一角を壊して、駅へ続く観光道路の工事中だからだ。 観光道路は谷越え通りから5号道路までの間、約550メートルの新道だ。(現在クィーンズ通りとか呼ばれているが・・)昭和32年に開通した。
(私が南校に入学したのが昭和33年、南保育園に通っていたのが昭和32年。工事中の道路を通っていたのだが、工事していたかどうかの記憶がない。タダの砂利道だった。
山本パン店正面前が新道の観光道路で店の右が肴町の道路だ、

【山本のパン屋の敷地は、館林図書館の跡地だった】
パン屋を建設する直前に洋館の図書館と書庫を南小の南西角まで曳き家した。曳き家は昭和30年。
山本さんのお姉さん(長女)から伺った話をもとに調べてみました。昭和9年地図と曳き家写真▲地図の出典は、大日本職業別明細図「館林町」昭和9年5月発行 発行;東京交通社。
映画館「館林クラブ」が地図に記されてない。二業見番も造られたのが昭和13年なので、やはり記されてない。図書館の西隣「福田商店」は同級生の福田さんの家だ。福田さんの家は「福田陶器店」だった。

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【山本パンは中村屋(新宿中村屋)で修行】
 中村屋といえば、歴史を誇るパン屋の名門だ。山本パン屋の味は中村屋だったのか。
長女のお姉さんに訊ねると、中村屋のほかに上野のパン屋さんでも修行したという。

【館林初のクリスマスケーキは大ヒット!
 お姉さんの話では「館林で最初にクリスマスケーキを作って販売したのも、ウチです。」とのこと。
クリスマスケーキは飛ぶように売れたという。お店を作るときには銀行に無視されたらしいが、その後、預金獲得のため銀行が日参するほどの売り上げだったという。高度経済成長の真っ只中、いい話です。
毎日の売り上げを畳の下に挟んでいたら、畳が盛りあがってしまったという話も昭和らしくていいね。
(映画「三丁目の夕陽」の世界を彷彿させる。)
 山本家は4人姉妹。私の同級生は末っ子。姉妹でお店を手伝ったという。同級生は映画館・大映の隣にあった純喫茶「みつばち」へパンの配達をしていたという。あの頃の子どもは家の手伝いをちゃんとしていたのだ。
(2015/9/30アップ)


【内田屋染物店(松原)】 読者投稿写真より(ご協力感謝です)

内田染物店前回(2013年11月)肴町の一柳閣の写真を提供してくれた張谷氏が実家の古写真を送ってくれました。
昭和の館林の商家の間取り図もお送りしていただきました。それをもとに平面図を書き起こして掲載。張谷氏の記憶のなかの商家を記録に残すのは歴史の証言。外観写真も貴重ですがこうした内部の資料も時代の文化遺産ですね。
ちなみに張谷氏の妹さんは、南小学校の同級生でした。奇遇です。(2014/1/08アップ)

【分福ヘルスセンター】

昭和30年代、南小学校の二学期終了のとき通信簿といっしょに、なぜか分福ヘルスセンターの限定タダ券がついてきた。毎年のように二学期終了後なかま達と連れだって歩いて分福ヘルスセンターへ向かった。ヘルスセンターまで子どもの足で約1時間、松原の街道沿いの道を抜けると分福ヘルスセンターまでは一面の麦畑だった。のどかな田舎道を映画「スタンド・バイ・ミー」の少年たちのように道草しながら歩いていったのだ。それは懐かしい記憶。
分福ヘルスセンターのお目当ては、プールのような大ローマ風呂。南小の子ども達が多く集まり温泉プールで遊ぶ。楽しい思い出満載の写真。話題はかわるが、当時のTVコマーシャルで「船橋ヘルスセンター」という似たような施設があり、そのテーマソングのフレーズが今も頭から消えない。(写真は会員からの資料で昭和32年発行(非売品)「現勢写真集・館林」より)
 ----------------------------------------------------------------------------- ヘルスセンター俯瞰茂林寺沼ヘルスセンターパンフ▲館林文化史談会のKさんより画像提供。分福ヘルスセンターのパンフレットより。貴重なカラー印刷だ。小学校の時の記憶が鮮やかに甦るね。(2013/08/07アップ)

【かどや薬局】かどや薬局
館林郵便局の真向かいに建つ「かどや薬局」。この建築様式は、なんといったらいいのだろう、擬西洋建築とでも言うのだろうか、子供心にも強烈な印象をうけた建築だった。一度見たら決して忘れられない館林の名建築のひとつだと思う。
この写真が撮影された昭和32当時の道路を見て欲しい。舗装されてない。アスファルトで舗装された道などほとんどなかったのだ。砂利道があたりまえの時代の市民の足は自転車だった。自転車で砂利道を走ったことがあればわかるが、バランス感覚が必要なので、今でいえば、体幹がきたえられたのだ。
かどや薬局の右隣の蔵のある店も、実にいい雰囲気。日光脇往還に面した商家の佇まいがのこる建物だ。 (写真「現勢写真集・館林」より)

【鳥仙本店(とりせん)】とりせん
昭和32年頃の「鳥仙本店」かごめ通り(現町名?)。のちの本格的スーパーマーケット「とりせん」の前身。私の年代ではこの店舗の記憶はない。とりせんと言えば館林初のスーパー「とりせん 」だ。今でもワクワク感をもって思い出す。店内の明るさ、商品の多様さ、レジで会計する新鮮さ、多くの客でごった返す店内、毎週のように新聞に折り込まれるチラシ、クラフト紙製の紙袋、すべてが新しくかっこよかったのだ。まさに小売業の革命だった。(写真「現勢写真集・館林」より)

【館林うどん】館林うどん
昭和32年頃の「館林うどん」(館林代官町)(現町名?)。(写真「現勢写真集・館林」より)

【邑楽パン】邑楽パン
堅町にあった邑楽パンの店舗。市内の小学校用給食パンを製造販売していた。コッペパンの味を思い出す。みなさんお世話になったはず。 (写真「現勢写真集・館林」より)

【小池商店】昭和30年ころ小池商店
海なし県・館林市のなかで、特に活気のあった鮮魚店。下町(江戸口のそば)にあった小池商店はその後スーパーになった。閉店が惜しまれる。 (写真:昭和30年発行、市の広報誌「館林」より)