懐かしの古写真・読者投稿写真

読者投稿写真その2(2013年12月)
【一柳閣/1926年(大正15年)】

一柳閣1926年
▲1926年1月24日(大正15年)一柳閣(館林市・張谷氏提供、2013/12)

張谷氏より懐かしの館林古写真が送られてきた。最前列左から3人目が張谷氏の祖父。
「一柳閣」前の集合写真とのことです。学校の校舎のような大きな建築に圧倒されます。集合した方々の服装は羽織袴の正装がメインですが、さすがに大正15年になると、大正ロマンの影響なのかモダンな洋装姿も多く見られます。

この時代は大正12年9月の関東大震災の復旧もめざましく、自由な気風に溢れた大正デモクラシーが盛りあがる。また、現在のカフェとは異なるが女給が活躍する「カフェー文化」も花開く。新宿高野のフルーツパーラーも大正15年にオープンしている。
前年(大正14年)には六大学の野球リーグ戦が始まり、映画ではチャップリンの「黄金狂時代」が上映された。大正15年8月には日本放送協会(NHK)が発足し、甲子園でおこなわれた全国中等学校野球大会(現・高校野球)の中継も始まった。

こうした時代の空気を感じながら写真を読み取ってみよう。
建物玄関を飾った幕に書かれたサクラビールは福岡に本社があった帝国麦酒のブランド。集合写真の中にサクラビールのはっぴを着た人物が二人写っているが、おそらく帝国麦酒の営業マンに違いない。積極的な営業を奨める時代でもあったので、北関東の中心地のひとつ館林に販売促進の試飲会(イベント・プロモーション)を行ったのだろう。(これ、あくまで田中茂雄の推測です)

料亭「一柳閣」は肴町にありました。二業見番の隣です。南小学校(現二小)のエリアにあったので覚えています。ただしこどもが行ける場所ではなかったので詳しくは知りません。そこで、今はなき、「一柳閣」について調べてみました。下の写真をどうぞ。
一柳閣歴史
▲昭和32年の写真集・館林には「一柳亭」という名前になってましたので一柳亭と表記しました。ただし地元では「一柳閣」と呼んでいましたね。(私の記憶)

読者投稿写真その1(2013年7月)
【三の丸・土橋門/(昭和43年)】

「よみがえる館林城展」会場で声をかけてくれた館林在住のOさんから昭和43年に撮影した三の丸・土橋門周辺と神戸生絲の南端の写真が送られてきました。Oさんありがとうございます。私の高校時代の写真なので見覚えのある風景です。とても懐かしいです。(Oさんの許可をいただき、ホームページにアップしました。2013年8月2日)
同様の写真をお持ちの方もぜひ投稿してください。よろしくお願いします。
みんなで懐かしむのが古写真の正しい楽しみ方です。

投稿写真2013年7月Oさん

▲昭和43年 O氏撮影。
三の丸土橋門、昭和43年当時は黒門と呼ばれていた、コールタールでぬられたような門で風情はなかった。むしろ無骨な門であった。小学生3年のときに三の丸郭内に館林初の市営プールができたので、夏の時期は多くの子ども達が集まるにぎやかな場所だった。
土塁の上は見晴らしも良く、程よい散歩道でもあり高い樹木のおかげで涼しかった。プールを見下ろす場所にしゃれたペパーミントブルーの休憩小屋があった。(上から4枚目の写真に写っている)

土橋門の北側の両側は堀であった。とくに東側の堀は近所の子どものかっこうの遊び場。冬は氷が張った(子どもならスケートもできた)。今は駐車場である。
土塁と堀の間の小道は、江戸時代にはなかったものなので、後年つくったのだろう。

神戸生絲の南端の写真は興味深い。この写真の辺りは神戸生絲の社員寮があったあたり。城沼をはさんで対岸の松原地区からこの風景がよく見えた。城の周辺は城沼であり、湿地帯だった。かつての城壁の面影を彷彿とさせる写真。(貴重です)
石垣の上のコンクリート塀。その上の鉄条網の角度がなぜか捕虜収容所を連想させる。こどもごころに不安感(マイナスオーラ)を感じた場所でもあった。