松平 乗寿(のりなが)在城年数9年(1644〜1654)

松平 乗寿(まつだいら のりなが)大給松平家 館林藩初代藩主
(詳しくはwikipedia-松平乗寿を参照)

 生誕 慶長5年(1600年)
 死没 承応3年(1654年)
 父母 父:松平家乗、母:石川康通の娘
 官位 従五位下、和泉守、侍従
 藩  美濃国岩村藩主→遠江国浜松藩主→上野国館林藩主。

松平 乗寿(のりなが)。大給松平家宗家7代。
松平家乗の長男。慶長19年(1614年)、父の死により家督を継ぐ。同年冬からの大坂の陣に出陣して戦功を挙げた。寛永15年(1638年)、美濃岩村2万石から遠州浜松3万6000石へ加増移封された。寛永19年(1642年)には家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1644年)には館林6万石に加増移封となった。家綱が4代将軍となると、正式に老中の一人として政務を取り仕切った。承応3年(1654年)、55歳で死去した。

大給松平家(おぎゅう)とは

松平親忠の次男松平乗元を祖とする松平氏の庶流。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕え、江戸時代には譜代大名4家のほか、数多くの旗本を出した。十八松平の一つ。
十八松平(じゅうはちまつだいら)は、松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。徳川宗家を含める場合もある。家康の祖父・松平清康までの庶家に限定する場合もある。また、十四松平ともいわれる。江戸時代の史料では『改正三河後風土記』の「三州十八松平家」に見られる。

「十八松平」は、「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説[1]があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。

「十四松平」 - 江戸時代に存続し『寛政重修諸家譜』に記載された松平庶流十四家。

●竹谷松平家 - 松平信光の長男守家の流れ。三河宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市竹谷町)を領した。
●形原松平家 - 松平信光の四男与副の流れ。三河宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原町)を領した。
●大草松平家 - 松平信光の五男光重の流れ。三河額田郡大草(愛知県額田郡幸田町)を領した。
●五井松平家 - 松平信光の七男忠景の流れ。三河宝飯郡五井(愛知県蒲郡市五井町)を領した。御油とも書く。
●深溝松平家 - 松平信光の孫で忠景の次男忠定の流れ。三河額田郡深溝(愛知県額田郡幸田町深溝)を領した。
●能見松平家 - 松平信光の八男光親の流れ。三河額田郡能見(愛知県岡崎市能見町)を領した。
●長沢松平家 - 松平信光の十一男親則の流れ。三河宝飯郡長沢(愛知県豊川市長沢町を領した。
●大給松平家 - 松平親忠の次男乗元の流れ。三河加茂郡大給(愛知県豊田市大内町)を領した。
●滝脇松平家 - 松平親忠の九男乗清の流れ。三河加茂郡滝脇(愛知県豊田市滝脇町)を領した。
●福釜松平家 - 松平長親の次男親盛の流れ。三河碧海郡福釜(愛知県安城市福釜町)を領した。
●桜井松平家 - 松平長親の三男信定の流れ。三河碧海郡桜井(愛知県安城市桜井町)を領した。
●東条松平家 - 松平長親の四男義春の流れ。三河の東条城(愛知県西尾市吉良町)を居城とした。
●藤井松平家 - 松平長親の五男利長の流れ。三河碧海郡藤井(愛知県安城市藤井町)を領した。
●三木松平家 - 松平信忠の次男信孝の流れ。三河の三木城(愛知県岡崎市上三ツ木町)を居城とした。