秋元 志朝(ゆきとも)在城年数19年(1845〜1864 )
毛利家からの養子であり親・長州。藩政改革を行い、文武の振興を図る。

秋元 志朝(あきもと ゆきとも)は文政3年(1820年)3月8日、周防徳山藩の第8代藩主・毛利広鎮の八男として生まれる。母が山形藩の先々代藩主・秋元永朝の娘で、秋元氏と縁戚関係にあったことから、天保2年(1831年)に叔父にあたる第3代藩主・秋元久朝の養子となる。
弘化2年(1845年)秋元家は栄転して、上野館林藩に移封された。
(詳しくはwikipedia-秋元 志朝を参照)

 生誕 文政3年(1820年)
 死没 明治9年(1876年)
 父母 父:毛利広鎮(周防徳山藩主)、母:秋元永朝の娘
 養父:秋元久朝(山形藩・第3代藩主)
 藩  出羽国山形藩主・第4代藩主→上野国館林藩主

安政2年(1855年)の安政の大地震を契機にして藩政改革(そのために、 岡谷瑳磨介を登用)を断行し、江戸詰の家臣の屋敷を館林に移して藩主権力の強化を図り、学問所である求道院or求道館を建設し後に造士書院と改め、おおいに文武を興した。元治元年(1864年)禁門の変が起こると、毛利家の出身だったため幕府から内通の嫌疑を受け、養子の礼朝(ひろとも・遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の五男)に家督を譲って強制的に隠居させられることとなった。

しかしその後も藩政の実権を握り、長州征伐では幕府・朝廷・毛利家の仲介役を務めている。明治9年(1876年)に死去した。享年57。

【造士書院】
秋元志朝は文武に力をいれた藩主。弘化4年儒臣・田中金治に近隣の制度を調査させ、新たに藩学求道館を建設して弘化4年5月に開校。安政4年岡谷瑳磨介が執政となると藩学の振興をはかり文武を併せ持つ造士書院に拡張した。内容を刷新し、厳格な藩制を設け、館林藩士たるもの「文武両道の内、一流の免許を得ざる者は家禄を2割減にして、怠慢を罰し。一流の免許を得たるものは、藩主より定紋付の上下ならびに刀剣の下げ緒を授けて之を賞せり」。
この下げ緒は紺色と白の段打ちで一流毎に一段増えて、優劣がわかりやすい。藩内に競争がおこり文武の興隆がめざましかった。
造士書院地図
国学者・生田万は、秋元氏の前の越智松平斉厚の時代の人だか、藩内の藩校・道学館(大名小路の東端で内伴木の西端)で学んだ。館林藩は代々学問好きの藩主が多かった。
(2012年8月21日追記)地図では学校武術稽古所と書いてある。


【秋元氏とは】
秋元氏のルーツは藤原氏の宇都宮氏の一族と伝える。宇都宮頼綱の子泰業が13世紀前半に上総国周淮郡秋元荘を領して本貫としたのに始まる。そののち師朝のときに秋元の名字を名乗ったという。関東へ転封された徳川家康に仕えその新参家臣層に加わり、関ヶ原の戦いで上杉景勝の投降を促した功により、慶長6年(1601年)上野国総社藩1万石に加増された。さらに泰朝は将軍職を譲り駿府に移った家康に仕える駿府在番衆のうち本多正純を筆頭とする近習出頭人に連なる。家康が亡くなり駿府の東照宮での埋葬のとき家康の棺を担いだひとり。
以下、秋元氏の大名履歴。
慶長6年(1601年)秋元長朝、上野国総社藩(前橋)1万石。「総社町」の建設。
寛永10年(1633年)秋元泰朝が甲斐国東部の郡内地方にあたる谷村藩1万8千石。
宝永元年(1704年)戸田家からの養子(外孫)・喬知(たかとも)甲府藩主家柳沢氏の旧領だった武蔵国川越藩5万石。栄転。
明和4年(1767年)凉朝(すけとも)、出羽国山形藩6万石。4代78年間と長く在封した。
弘化2年(1845年)志朝、上野国館林藩6万石。
秋元氏は元々は関東がルーツだというのがわかる。
(2012年8月21日追記)

【周防徳山藩・ルーツは毛利輝元】
徳山藩(とくやまはん)とは、江戸時代の藩。当初の名称は下松藩(くだまつはん)で、毛利輝元(毛利元就の孫)の子で毛利秀就の弟に当たる毛利就隆が1617年(元和3年)に3万石を分与されたことから立藩した。 藩庁は最初は周防国下松(現在の山口県下松市)、1650年(慶安3年)、下松は交通に適してないという理由から毛利就隆は藩庁を同国徳山に移した。徳山ははじめ野上と言われていたが、就隆が徳山と改称した。石高は4万石。

【山形藩とは】
山形藩(やまがたはん)は、羽前国(旧出羽国)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。もとは関ヶ原の戦いで東軍方に就いた最上義光(57万石)が治めたが、後に幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。秋元家が藩主となったのは1767年のこと。その後4代78年間と最も長く山形藩を運営していた。 秋元時代の石高は6万石。
凉朝(すけとも)〔従四位下・但馬守〕
永朝(つねとも)〔従四位下・但馬守〕
久朝(ひさとも)〔従五位下・但馬守〕
志朝(ゆきとも)〔従五位下・但馬守〕