最後の館林藩主・秋元 礼朝(ひろとも)在城年数7年(1864〜1871)

秋元 礼朝(あきもと ひろとも)嘉永元年(1848年)遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の五男として生まれる。安政6年(1859年)に館林藩の初代藩主・秋元志朝の養子となり、元治元年(1864年)10月に志朝が禁門の変により江戸幕府から強制隠居にされたため、家督を継いで第2代藩主となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府軍に対して協力する。明治2年(1869年)、版籍奉還により館林藩知事になる。明治4年(1871年)に廃藩置県で免官。明治16年(1883年)に死去。享年36。
(詳しくはwikipedia-秋元 礼朝を参照)

 生誕 嘉永元年(1848年)
 死没 明治16年(1883年)
 父母 父:太田資始(遠江掛川藩の第5代藩主)、母:上杉斉定の6女・良
 養父 秋元志朝
 兄  太田 資功(遠江掛川藩の第6代藩主)
 藩  上野国館林藩主

【館林最後の殿様・秋元礼朝は勤王の藩主】
明治元年、関東諸藩に率先して勤王の軍に従う。親子2代の勤王藩主。
戊申戦争では兵、武器、軍資金を献上。
明治元年4月、50余名の兵を館林隊として編成(先発隊)。結城付近武井村おいて幕府軍と戦闘。5月末には奥州へ兵を進める。6月福島県三春(しだれ桜で有名)を降伏させ本宮(郡山と二本松の間の町)に迫る。
8月会津進撃の命令が下り、会津へ向けて進軍。三斗小屋の間道より進む。大峠を占領し、中嶺の幕府兵を破り、駒返を衝く。9月会津に進軍。
9月22日会津若松城陥落。白虎隊などの多くの悲劇がおこった。(来年はNHKの大河ドラマの舞台になる)
また、別働隊は8月中より磐城平口より中村に進み駒ヶ嶺を破り、旗巻峠に向かう。激しい戦闘になる。9月15日仙台藩の降伏。
館林藩の出兵は合わせて1千百余名、(多いね)、39名の戦死者を出した。この戦功により1万石を下賜されるて7万石となる。藩主・礼朝はこの恩賞に感激し、これは全くもって将卒の働きの結果であるとして、城下の西、大谷原に39勇士を祀る、館林招魂社を建立した。