藤牧義夫 (ふじまき よしお)1911年1月19日 - 1935年9月2日失踪

明治44年(1911年)1月19日、群馬県邑楽郡館林町大字館林千六番地
(現・群馬県館林市城町14番38号)に生まれる。
田山花袋と同じ、館林藩士の家。父・巳之七、母・たかの末子(4男)。
父巳之七は小学校校長を歴任したのち退職、義夫が生まれたときには司法代書人となっていた。
母たかは巳之七の二番目の妻。先妻は病没、4人の子をなしたが、うち3人はすでに亡く、また、たかとの子も長男は夭折している。
日用雑貨小売を営む自宅の二軒隣りに、七歳年上の彫刻家・藤野天光が住んでいた。田山花袋の旧家(現・田山花袋の家の元の場所)のそばである。

1917年(大正6年) 館林尋常小学校(現・第一小学校)に入学
1925年(大正14年) 館林尋常小学校高等科を卒業
1926年(大正15年) 父の伝記を書いた自家製本「三岳全集第1巻」を完成
1928年(昭和3年) 銀座の植松図案工房に就職
1931年(昭和6年) 第9回春陽会展に「ガード下のスパーク」(木版)を出品、第1回日本版画協会展に「請地の夜」(木版)を出品
1933年(昭和8年) 第14回帝展に、「給油所」(木版)を出品し入選
1934年(昭和9年) 館林に帰郷し城沼を絵巻風に描く。「隅田川絵巻」全巻を完成。
1935年(昭和10年) 9月 向島の小野忠重を訪ね失踪。当時24歳。
(詳しくはwikipedia-藤牧義夫を参照)

藤牧家秋元時代絵図面
秋元氏時代(幕末)の館林城絵図の外加法師に一軒のみ藤牧姓の家が見つかった。
絵図面の藤牧弥十郎は義夫の祖父と思われる。 大正15年、義夫15才の時、藤牧家は日用雑貨を扱う「藤牧分福堂」(館林町裏宿684番地)を開業。しばらくの間、義夫は店を手伝う。

画期的だった「生誕100年藤牧義夫展」
館林美術館 2011年7月16〜8月28日、 神奈川県立近代美術館 2012年1月21日-3月25日

生誕100年を記念して、群馬県立館林美術館と神奈川県立近代美術館との共同企画。藤牧の生前に残された版画・素描・白描絵巻・資料の展示ならびに、白描絵巻の全貌を把握できる映像展示を加えて、作品・資料点数100点程度で構成された。
猛暑の館林美術館を忘れさせる、優れた展覧会。初めて見た「墨田川白描絵巻」に感動。ジブリのアニメ原画を見るような楽しさがあった。
藤牧展館林美術館
館林美術館「生誕100年藤牧義夫展」(2011年7/16〜8/28)
生誕100年といえば、岡本太郎(1911年2月26日生まれ)。他に画家・版画家の瑛九(えいきゅう)も同じ年に生まれている。藤牧義夫、全然有名でないが作品ではひけをとらない。24才8ヶ月で失踪というのが本当に惜しまれる。

神奈川近代美
鎌倉の神奈川近代美術館「藤牧義夫展」
藤牧義夫展チラシ
藤牧義夫展チラシ(表と裏) 2012年神奈川近代美術館制作
作品01
1934年「赤陽」 国立近代美術館蔵藤牧版画作品
「鉄の橋」1933年木版、白描絵巻
「白描絵巻」展覧会図録より白描絵巻
1934年秋、隅田川の風景を描いた長大な絵巻を制作しました。全4巻の絵巻。長さ16メートル以上!筆遣いの巧みさと透明感、構成の妙、知らなかった、郷土・館林にこれほどのアーティストがいたことに感動。 実物をみたら、だれでも藤牧義夫のファンになってしまう。
是非、館林美美術館の看板作品として常設を望む。ポンポンにはていねいにお引き取り願いたい。ぽんぽこだからポンポンはないだろう。しゃれにもならない。

藤牧肖像写真

藤牧義夫 ポートレート 1934年
館林市立資料館蔵
藤牧関連本
ノンフィクション作家駒村好重の「君 は隅田川に消えたのか~藤牧義夫と版画の虚実」
(2011年・講談社)