生田 鎬(いくた こう)
文化元年(1804)ー天保8年(1837)享年34

館林藩士・香取庄右衛門政徳(まさのり)の娘として
文化元年(1804)館林に生まれる。
香取家は130石で生田家と同格の家であった。
文政7年に生田萬と結婚。21歳(数え年)
性格は温良で貞淑。よく舅、姑、夫につくし周囲に賞賛されている。 波瀾万丈の夫をよく支えた。萬の影響か、鎬も和歌を詠む。

【鎬の生家/香取家のこと】
香取家の初代は庄右衞門政備(まさよし)。松平清武(越智松平家初代)に仕えた。 その三代目が庄右衞門政休(まさよし)でこの人が鎬の祖父。 その子が政徳(まさのり)でこうの父。 香取庄右衞門政徳は始め金吾と称し、民司と改め、また津守と改めた。 家督を継ぐまえの役職は御小納戸役。それから御姫様付きとなり、妻(鎬の母)を迎えた。( こどもが生まれる。 衛守と鎬。兄の衛守の名前が衛の漢字。萬と鎬の最初のこどもの名前が衛門(もりかど)。 萬は妻の実家の配慮しているね。 )
鎬の父は文政3年に病気のため他界(家督を相続する前に亡くなる)。享年45。 館林石町にある常光寺に葬られた。
その時、鎬が17歳。萬と結婚する4年前だ。
祖父の政休が没した時に、鎬の兄・衛守政又(まさひら)と称して家督を相続。 兄はその後、文政6年江戸詰めとなり、出世して江戸屋敷用心役になった。 しかも2百石。優秀だったのだ。 妹夫婦が藩を追放になり江戸の平田篤胤の世話になった頃、 兄は平田家を訪れたという。妹夫婦が心配だったのだ。
(資料「生田萬事跡補遣」寺島錬二著 より)
2014年8月5日アップ

【天保8年 生田の乱に死ス】
天保8年6月1日未明。夫・萬は数人の同志と柏崎の代官所を襲う。
詳しくは 「生田萬」を参照。
捉えられた鎬とふたりの幼子。武家の娘である鎬は、6月3日夜、死を選ぶ。
二人の幼子も理解していたという。その壮絶さには言葉を失う。

イラストは、「柏崎軍記」と題した書物の挿絵として用いた絵を「尊王救民・生田の旗風」の著者、甲子楼主人が写したもの。
生田鎬イラスト
▲柏崎陣屋の牢に拘束された鎬とふたりの幼子。帯のような細い紐を手に取る鎬。
左が6歳の「みや」、右は3歳の「とよ」。鎬はこのとき34歳であった。
絞殺のため手ぬぐいを使用したという説と着物の襟をほどいて使用したという説があります。鎬は着物の裾を紐で縛り乱れがないようにし、二人の子どもを両脇に抱えて、舌をかみ切った。その壮絶であっぱれな死にたいして、日本婦人の鏡と賞賛されました。
(しかし、ほかに解決策はなかったのだろうか、ふたりの子どもが哀れに思えてしかたない。)

追記)二人の幼子は女の子という設定ですが、「生田萬事跡補遣」寺島錬二著(昭和13年刊 館林郷土業書)によれば性別は定かでなく、男児の可能性もあるとの見解でした。
2014年8月5日アップ

【資料】
生田こうの和歌生田鎬 の筆蹟(自筆)
鎬女と名前が記されている。筆のタッチは、夫・萬の繊細な美しさに比べて激しい。書のうまさは鎬のほうが上。
(これ、素人の判断です。)
--------------------------------
画像は「義人生田萬の生涯と詩歌」相馬御風著 (春秋社刊 昭和4年発行)より