生田 萬(いくた よろず)
1801(享和元年)〜1837年(天保8年) 享年37

館林生まれの国学者。
平田篤胤に学び、 多くの著作を残す。
藩主に藩政改革を進言するが追放される。
太田と柏崎で私塾を開く。
柏崎で義憤にかられ蜂起!
[生田万の乱]を起こす。

館林藩主松平斉厚の時代、享和元年(1801)館林城内(大名小路)で生まれる。父は生田信勝(130石)。幼名は瞭または雄。長じて小膳または多門を名乗り、後に萬(よろず)と改めた。上級武士の家だ(大名小路に生家があるのでわかる。)
大名小路の大手門寄り、南側。写真参照。生田万、誕生した場所▲生田萬誕生の地は館林・大名小路。桑原商店のある場所です。(桑原さんとは同じ町内なのでこどもの頃からよく知っていた。まさか生田萬の生家の場所とは・・・。
しかも私の生まれた鷹匠町と直線距離で100mもない。奇遇!!)
          ●
生田萬は頭脳優秀で、勇気もあり、行動力があった。
館林人物誌に「天資勇邁頭脳俊敏気概に満つ」と記されている。素晴らしいね。
家族想いで、子煩悩。
しかし、激情タイプ。直情型、熱血漢なので、周囲との軋轢が生じる。
(●コラム:頭がよくて、知識が豊富。しかも正義感が強く直情型で行動的。江戸時代ではいずれ破滅の道へ。現在ならば、スティーブジョブスのようなタイプだろうか?
現代に生まれて、しかも国学でなくてITを専攻したら、アップルに負けない企業を作っただろう。その企業のマークをデザインしたい。素材はリンゴでなくてもちろん櫻だ。)
大道寺生田万の父祖の墓


【生田 萬、名前が多すぎるね】

幼名、雄。
成長してからは、小膳多門
諱(いみな)は国秀
字(あざな)は救卿東華
号は 崋山、大中道人
生田首道麿(いくたのおびとみちまろ)、菅原道満(どうまん)、陶篤道(すえとくどう)東寧山人、桑園主人、
博桑山人、利鎌(とがま)の屋、櫻園(さくらぞの)、かがみの室
さすがに文学者だけあってこだわりがある。
私塾の名前にも使用した「櫻園」はいいね。響きも字面もステキだ。
幼名の瞭や雄は今の時代に通用する名前。

コラム●いくつも名前を替えられる社会は風通しがいい。
成長や身の変化にともなって名前を変える。これほどのリセットは他にないだろう。
人格というのは多面的だし、実情に即したシステムだ。人生を多彩にしてくれる。


【英才の学業遍歴】

8、9歳の頃、藩校「道学館」に入る。越智松平家も学問を大切にした藩であった。
藩校があった場所は秋元時代と同じ大名小路の突き当たり(東端)
藩校道学館では、まず書籍の音読を2〜3年。(すらすらと漢字がよめるようになる)次に「四書五経」の精読(内容まで踏み込む)。
山崎闇斎(あんさい)の闇斎学派朱子学を学んだ。萬はその後、宋の性理学を専攻。(性理学:内容不明)また、詩文を習う。
館林藩の大江務義(國学院大の資料では那波務義となっている。大江は館林人物誌より) について和歌を学び詩文の才能を開花させた。
藩校では詩文の講座がなかった。(禁じていた)
生田万、15,16歳にして日に4〜5首和歌を詠んだ。
10代最後の頃に「烏有文集」を著す。21歳で「大中道人萬稿(5巻)」を著作。
(ともに詩文集)
※年齢はいずれも数え年。満年齢ではもっと若い。

賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の書を読み、研究。
時の思想界の大流であった皇学精神古学思想に身を投じることになった。
館林の友人・荒井静野(註)を通じて賀茂真淵、本居宣長の著作に接した。平田篤胤の「霊能真柱」を読み、古道への疑問を氷解させ、その道に生死を賭す決心を固める。文政4年4月3日、荒井の紹介で江戸の平田篤胤を訪問(「館林人物誌」では文政6年)。平田篤胤に将来を嘱望されて入門。しかし。当時の館林藩では領外へ遊学が簡単にできる状況ではなかった。やむなく、文書の往復で平田篤胤の指導を受けることに。
もちろん江戸で直接指導も受ける。
文政7年、篤胤の命を受けて「日文伝評論」を著わす。
それでも、俊才・萬の学力はますます向上。師の平田篤胤はその逸材ぶりを喜んだ。

)荒井静野のことが判明。(2014年7月7日)
館林城下町の堅町で木綿問屋と酒造業を営む。荒井家は代々静右衛門を名乗っていた。町年寄りを務め、積年の功績により町検断待遇となり、苗字帯刀を許された。
荒井静野は平田篤胤の弟子。著作に和歌700余首を収めた『草陰屋歌集』がある。
(館林双書31巻「館林の地名35ページ竪町の紹介記事で偶然発見。)

●萬の著作
文政4年(1821)「鏡室集」《きょうしつしゅう》
文政6年(1823)「夢路記(2巻)」《ゆめじのき》
文政8年(1825)「三木一鎌」《みきひとかま》
文政9年(1826)「良薬口苦(2巻)」《りょうやくくちににがし》
※参考文献として(国学者伝記集成. 第2巻. 続編、 上田賢治「生田萬考」國學院大學日本文化研究所紀要32)。国学院大学の研究だが隣の太田を常陸太田としている。間違いだ。(歴史の資料は間違いが本当に多い。人間はミスをする生き物。まずは疑うことだね。)私のホームページも間違いが多いに違いない、まずは陳謝<m(__)m>

【藩政改革の意見書「岩にむす苔」を上書】

文政11年10月(1828年)、館林藩の窮状を打開しようと藩政改革の意見書を記した。
当時の館林藩は借財25万両。特に文政7年正月の大火事では目車町(館林駅の西側、正田醤油があるあたり)から出火。運悪く目車町は城下町の西の端に位置する。上州名物空っ風は西風なので城下町と城内の大半を焼き尽くした。その復興に莫大な金額を出費することになった。財政は悪化。度重なる水害や火事に苦しめられた。
藩主は館林がいやになり国替えの願いを幕府に提出するほどに。 生田萬はこの状況を打破するための意見書をまとめ上書。内容は言葉の隅々まで激烈。その論旨は藩政の弊害を衝くものであった。藩主・斉厚の怒りをかい、( 史実は、家老等が意見書を読んでそれが実現不可能なものであったため、突き返した。藩主は読んでないようです)万は藩籍剥奪、追放されてしまう。文政11年11月のこと。意見書を提出後1ヶ月でこの処分。藩主は相当頭にきたのだね。萬一家は江戸へ出て、恩師・平田篤胤のもとへ。篤胤は喜んで迎え、塾の塾頭としての仕事も与えた。姓も大和田と変えた。

コラム●その後の越智松平家。天保7年・1836年、願いが叶って石見国浜田に移封。それから30年後の慶応2年・1866年浜田藩は長州の大村益次郎に攻められて、戦わずして敗走。その時の藩主は将軍慶喜の実弟だったのだ。(お兄さんの将軍・慶喜も戦わないで逃げちゃった。よく似てますね、さすが兄弟だ!そのおかげで救われた命が沢山ある。)浜田藩の飛び地、美作の鶴田に逃れて鶴田藩を興して明治維新を迎える。)

「岩にむす苔」を読んでないので内容は知りません。ただ、詩文の才に秀でた生田萬らしい粋なタイトル。ローリングストーンですね。A rolling stone gathers no moss.
(勝手な解釈ですみません。)違ってました。
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  岩にむす こけのむしろを むしろとし
     しりに敷くべき 人さえもなし
           文政11年4月22日  国秀
 (萬の別名)
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残念ながら意味がよくわかりません。どなたか教えてください。
苔のむしろなんて冷たそうで尻に敷きたくないよね。教養がないのでわかない。
 それより転石苔を生ぜずの方が分かりやすい。

【岩にむす苔】内容が判明!
[館林郷土業書](「生田萬事蹟補遣」寺島練二著)に生田萬の記述があった。岩にむす苔の内容が要約されていたので引用します。(意訳すると誤解が生じるので原本の部分をお見せします)2014年7月16日追記岩にむす苔
無窮会(註2)所蔵で雑誌伝記/昭和11年6月号。生田萬100年記念号。(調べるのが大変そう)
【要約すると】
館林藩は当時25万両の借金があった。解決策も見いだせず、藩士の士気も低下している。
政治改革が急務であると訴えた。
その具体策が細部にわたり披露された。その中に「農兵軍国制」とある。これって長州の高杉晋作が創設した奇兵隊と同じでは・・・・。面白い。
意見書は用人の那波乗功や家老の尾関、渡辺等の内見だけで却下されたしまった。
私が思うに却下の判断は無理もないと思う。
萬は学者であって政治家ではない。しかも性格的に人望がなさそうだし。
内容は優れていても受け入れられないだろう。まだまだ危機感が藩内に希薄だったのだ。人は見たいものしか見えない。足下の危機は見えない。ましてや家老職などの上級武士ではなおさらだ。(上に薄く下に厚く処遇するなんてやらないだろう、上級職の反発が想像できる。長州や薩摩や佐賀などの改革に成功した藩は、身近な危機感があったのだ。しかも藩主をはじめトップがリーダーシップを発揮した。
人は尻に火がつかないと分からない。それは昔も今も。哀しいけれど・・・。

註)館林藩の藩政改革
生田萬の「岩にむす苔」の意見書から、約25年後、館林藩では藩政改革が 岡谷瑳磨介によって実行された。(館林藩でも越智松平家と秋元家は違うのだか)

註2)無窮会・むきゅうかい/財団法人・無窮会 
政治家の平沼赳夫氏が理事長をつとめる会員制の古文書専門図書館。 赳夫の養父・き(馬へんに其)一郎が国学者井上頼くにが集めた膨大な蔵書を井上の死後、私財を投じて購入。戦前のことだ。図書館は小田急線・玉川学園駅の住宅地にある。古典籍の宝庫。(磯田道史著・「歴史の楽しみ方」中公新書12ページに掲載されていた。)  

【文政11年10月】館林追放の命が下る!
文政11年(1828年)生田萬は建白書の一件を咎められる。危険人物視され、職を奪われ、謹慎。そして10月に追放が決定された。 生田家は弟が家督を継ぐことになった。
萬は妻子を伴って、江戸の平田篤胤を頼ることになった。
不幸が重なることになった萬一家。
文政12年に 長男の衛門(もりかど)を亡くした。死因は痘瘡。長澤理玄の偉業はもう少し先のこと、間に合わなかった。不孝はつづく。
翌、天保元年(1830)女の子・百合子が生まれるがじきなくなる。
その時の歌(和歌)哀しみが伝わる。

 わく子らを はふりおさめし おくつきは 見るもかなしく みぬもかなしも。

翌年(天保2年2月)。父・信勝の訃報に接したが追放されていたので葬式に参列できなかった。萬、慟哭。不孝の罪を謝し、また歌をよむ。(長歌なので掲載しません)
その年の秋に処分(追放)が許された。
※文政11年の大きな出来事「シーボルト事件」があった。そんな時代のことでした。
※天保2年1月に良寛がなくなっている。萬とは関係ないが、時代のイメージのため記載


【天保2年】許されて帰郷。
館林藩領の外れ、新田郡太田宿へ移住。
私塾・厚載館を開校し教育と著述に励む。


天保2年(1831)、追放処分を解かれて帰藩。
萬の父の死亡と処分の取り消しは関係があるに違いない。
萬の奥様の実家(香取家)も生田家と同じ130石の上級藩士、娘夫婦のことで積極的に動いたのだろう。(これは田中の推測です。私がその立場なら絶対に働きかけます。娘を江戸に置いておくわけにはいかないしね、しかも直前に二人の孫を亡くしたのだから。館林にいたら亡くなることもなかったと思うし)

許されて館林に戻った萬だったが、実家は弟・廉が後を継ぎ、しかも長男(精)も生まれていた。萬はとても家庭的な人間なので、その状況をみ、自分の居場所がないと判断。館林を離れることにしたのだ。
一度江戸にもどり、その後太田へ。
天保3年(1832)萬、数えで31歳の時に太田へ移り住む。太田時代は萬ファミリーにとって安らぎの時だった。萬の著作・研究も進み、二人のこどもにも恵まれた。
太田時代の萬の足跡のひとつをご紹介。
太田市新井町522-1(かつては新田郡新井村)に建つ、「小暮照房石碑」だ。
小暮照房石碑 生田萬揮毫
▲石碑の左下に萬の署名がある。天保五年三月 櫻園主 生田萬書と刻まれている。
(2014年7月30日 撮影:館林城の再建をめざす会 田中茂雄)

萬はなぜ太田に移ったのか謎だった。やはり館林に残るファミリーとの関係性だと思う。ほどよい距離の太田が都合が良かった。(太田には支援者もいたし)萬の奥様も館林藩士の娘だし、太田なら法事とか介護とかなにかと便利だったのかも知れない。子育ての苦労もあったし・・・。(こんな理由はどこの資料にも書いてませんが、親戚づきあいは生活するうえで大切なこと。以外と真実かもしれないね。
なにしろ太田に5年も暮らしたのだから。居心地がよかったはずだ。太田で二人の※女児を授かったのだから。多分、萬の弟夫婦も、萬の奥さんの実家も喜んだに違いない。
(※男児という説もあります)
5年後、天保7年(1836)10月越後柏崎へ移住してしまうのだが、同年(1836)館林藩主の越智松平家が島根の浜田へ国替え。新潟移住への動機のひとつだろう。実家も親戚も浜田へ移ってしまったのだから。新潟・柏崎なら少しだけ浜田に近づいた。)もちろん柏崎への移住を熱心に勧めた人物がいたのだが。その人の名は樋口英哲。(平田篤胤で学んだ学友というか、弟のような存在。当時、諏訪神社の神職)

太田での安定した暮らしのなかで学問の成果を多く残した。
「古学二千文」《こがくにせんもん》
「古易大象経伝」


師の平田篤胤は多いに喜んだという。
「余に従いて業を受くるの士多きが中に、道満(どうまん/萬の別名)よく一を聞いて二を知り、小をつんで大をなす。余の道満あるは是れ余が誇りのひとつなり」と言った。

このまま太田へ留まってくれたらよかった。学者としての生田萬が歴史に残っただろう。
場所は大光院のそば大門通りに塾(厚載館、渋沢子促という文化人が費用を出し萬を後援してくれた)があった。
萬のふたりの子どもも呑龍さまのお膝元、すくすくと育ったに違いない。

コラム●生田萬と渡辺崋山
【渡辺崋山と偶然の出会い、歴史の面白さ】


私は小学生の頃、渡辺崋山が大好きだった。というのは家にあった数少ない絵本の中に渡辺崋山があった。要は貧しい武家の少年・崋山が絵の才能を発揮し、画業で家族の生計をささえるという修身的な内容の絵本だったが、大のお気に入り。その絵本を丁寧に模写したものだった。
小学6年の(館林南小学校)学芸会で「渡辺崋山」を研究発表した。まったく受けなかった。
その渡辺崋山と生田萬が出会う。すごいね。
その顛末はこうだ。(崋山の著作「毛武游記」この旅(桐生に嫁いだ妹の茂登子の所へ遊びに行ったのだ)で、崋山は熊谷、妻沼、太田、(金山に登る)桐生へ。大間々、足利・大日様へも、各地でスケッチを残している。足利では2泊3日もして、東武足利駅の南側の小さな山(上浅間神社へもお参りした。知らなかった〜。高校3年間、通学で利用した駅の隣だ!)残念ながら館林には寄ってくれなかった。
                ●
 天保2年(1831年10月11日、崋山は江戸から板橋へ向かう。志村(現在の志村坂上あたりだろうか)を過ぎたあたりで前を行く旅人に追いついた。タバコの火を借りようとしたのだ。「火をかしてください」(このセリフ、五輪真弓の名曲「煙草のけむり」と同じ) その旅人がなんと生田萬だった。
崋山は小藩(田原藩)の家老であり、しかも芸術家(人物画を得意としていた。近世/肖像画で唯一の国宝・「鷹見泉石」(天保8年作)の作者だ)
鷹見泉石はお隣の古河藩の家老だ。大塩平八郎を捕らえた責任者。(歴史の不思議)。西洋への知識も深く、有能。しかも、崋山が描いた肖像画が泉石を有名にした。

崋山は萬の8歳年上。萬の旅の目的地は太田(新井村だ)。
妻は先に館林の実家へ戻っていた。ひとり旅であった。
その崋山が萬の風貌を克明に記録していた。
 頭は惣髪というスタイル。眉は薄い。鼻筋が通っている。面長。色黒で、 肩に包みを背負っていた。 身長は崋山と同じ。体型はやや太め。
  その武士(萬)は神世の学をむねとし、平田篤胤の弟子となり、平田の家に住んでいる。ふたりの話は弾んだのだ。漢学などというねじれた学問など興味がないことなどを話したという。
よほど気があったのだろう。類は友を呼ぶという感じ。そのまま話をしながら中山道を歩く。 途中歌も詠んでいる。

   しらとほふをにひた山のもる山の山守りとしも我やなりにき

崋山は萬のことが大変気に入って、なんと桐生まで一緒に行きましょうと、誘ったのだ。宿でゆっくりと夜通し話がしたいとも言っている。
崋山は萬に強烈な印象をもったのだ。崋山の文章に「生田萬と途々(みちみち)快談しつつ行」と書かれている。
萬は体調が良くなかったらしく「疲れに疲れた」と誘いを断わり、浦和の宿場で宿をとり休んでしまった。残念だ。ふたりは志村から浦和まで仲良く旅をしたのだ。
9歳年長の崋山は萬と別れたあと桶川まで行き、雨も降り夜になったので馬を借りた。ようやく鴻巣までたどり着き鴻巣で宿泊。(がんばるね。萬は運動不足じゃないのか?)
※2017年4月20日新事実判明。下記参照

註)渡辺崋山はそれほど気のあった萬の肖像画をなぜ残さなかったのだろう。
きっと、スケッチ的なものは残したに違いない。崋山の能力ならわけもないこと。しかも時間はたっぷりあった。藩の仕事を離れて、妹の所へ遊びに行くというプライベートな旅行をしていたのだから。
〈歴史のイフ〉崋山(渡辺のこと。生田萬も崋山という号を持っていたので紛らわしい)が萬の肖像画を佐藤一斎(幕末の儒者、「言志四録」で有名)並に描いてくれたら、生田萬のビジュアルイメージは違ったものになったはず。資料として掲載した肖像画はアニメのキャラっぽい。ひょうきんすぎる。もう一点の肖像画はあまりにも覇気がない。

その後の崋山の活躍は有名。しかし蛮社の獄に連座、後に田原藩で自死してしまう。
(渡辺崋山に興味のある方は、鬼怒鳴門(ドナルドキーン)著「渡辺崋山」をどうぞお読みください。図版も多く読みやすい。) 渡辺崋山
▲2014年7月18日コラム画像「渡辺崋山」制作(館林城の再建をめざす会 田中茂雄)


発見!崋山の弟、
館林の善導寺で僧侶となる】
修身教科書に「兄弟」というお話しがある。
渡辺崋山と弟との悲しい別れなのだ。
修身教科書「別れ」
図は尋常小学修身教科書(昭和初期)より「兄弟」の話の挿絵。
(冬なのに下駄だけ、昔の人は寒さに強かった。絵は下駄だが実際はわらじだろう。
下駄で板橋から館林まで歩けない。 明治時代の挿絵画家(絵はうまい)も時代考証すべきだね。 これではご近所へお使いに行く服装だ。寺男はわらじをはいてるが。
弟も8歳にしては幼く描かれすぎる。やや演出過剰!)

渡辺家、貧乏だったが小藩(田原版)といえ家老の家柄。貧乏のために寺へ預ける弟のために、もう少し旅の衣装を整えさせているはずだ。
(板橋から館林まで一泊二日で歩いたはずなので) 可能なら渡辺華山が絵を描けば良かったのに。
修身教科書の絵に注文をつけても大人げないが・・・。渡辺崋山ファンなので。

登(華山14歳)と弟・要之助(8歳)との別離。 修身の教科書世代では有名なエピソードなんですが、戦後生まれの団塊世代以降は知らないですね。 絵は修身の教科書のもの。
別れの 場所は板橋です。 この話は知っていたのですが、それほど感心がなかった。
悲しいシーンなので・・・。

ところが、びっくり仰天。 大人に手を引かれて連れて行かれる弟の行き先が、
なんと、館林だったのです。
連れて行った大人は善導寺の寺男という。 知らなかった。
後年、渡辺華山は妹の嫁ぎ先桐生へ旅にでます。 途中、再び板橋区志村で生田万とあって途中まで旅します。 なぜ、生田万と一緒に話をしながら歩いたか? 今までは、国学者・文学者としての魅力を感じ、同行したものと思っていたが それだけではなかった。
生田万の目的地は太田。 華山は館林藩士であったへ萬に弟のことを重ね合わせたのだ。
崋山の弟は6歳離れている。生田萬とは9歳だ。間違いない。
(このことは、ドナルド・キーン先生もご存知ないと思う。
このサイトをご覧の時代小説家の方々へ、どうぞこの事実を使ってください。オープン情報にします。)

8歳で別れた弟は善導寺で修行をして僧になる。定意と命名され得度した。
将来ある定意は無念にも25歳のときに熊谷(托鉢中に)で急死してしまう。 華山は悲しんだ。
桐生への道中で生田萬に出会った時は、弟の死後5年のこと。悲しい記憶も鮮明だ。
しかも旅の途中で熊谷を通る。生田萬は館林の人だ・・・。

100パーセント、弟のことを思い出し、館林藩士(当時は浪人)であった生田萬に興味を持ったのだ。 途中の宿を薦め、一緒に泊まらないかと提案したのも、 弟が成長した館林のことを知りたかったに違いない。
生田萬ももその辺をわかってあげれば良かったのに・・・・。 残念でならない。
このエピソードは「館林双書第15巻「館林の社寺」64頁を読んで見つけた。
(2017年4月20日のこと。)
館林と天才芸術家・渡辺崋山が繋がった。

(2017年4月20日アップ)

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【天保7年】運命の糸に操られ、
生田 萬は新潟・柏崎へ。
“いくな萬! 戻っておいで館林へ”
(館林市民の声を勝手に代表して)

【生田萬はなぜ柏崎へ行ったのか?】
それは、平田篤胤の同門の気のいい後輩・ 樋口英哲(柏崎の神主)がキーパーソンだ。
江戸で平田篤胤の塾頭をしていた萬が英哲を指導し学業のサポートをしてあげたのだ。ふたりは同門の先輩後輩であり、とても気があい友情を育てていたのだ。
天保6年冬
太田にいた萬は柏崎の樋口英哲にお手紙を出す。
「そのうち、そっちへ遊びに行きたいのだが・・・。」。
返事はもちろん、「よろこんで、お待ちしてますよ。」
天保7年初夏
萬は越後へ旅にでた。
5月に柏崎へ到着。大歓迎。歓待されるまま1月以上滞在。(柏崎の多くの文化人が萬の学識を慕って訪れ、親しく過ごしたのだ。人々は永く留まって欲しいと萬に哀願したのだ。萬はとっても気分がよかったに違いない。
萬は太田にもどる。戻ってからも、柏崎で萬に啓蒙された熱心な人々が、再訪を熱望してきたのだ。(困ったね)
※天保7年、館林藩主・斉厚(なりあつ)は念願が叶い、島根県の石見に国替えとなる。 生田家(当主・廉は萬の弟)も妻の実家である香取家もみんな引っ越しすることになったのだ。これが生田萬が柏崎へ移住するきっかけとなったはずだ。
(田中の推測。そうした資料は見つからなかったが、ファミリーの絆を大切にしてきた萬ならきっとそうするだろう)
天保7年9月
萬は妻子(妻ひとり、こども二人)を連れて、柏崎へ。
(永住するつもりでなくて、しばらくしてから太田へ戻るつもりだったという。)
柏崎では、丁字屋という旅館に宿泊。しばらくして山田小路という所に家を借りて塾を開く。「櫻園」という名の塾だ。(樋口英哲はじめ多くの萬ファンが動いたのだ)
こうして、萬は柏崎へ移住した。

【天保の大飢饉という情況】
萬が柏崎へ妻子をともない移住した時期が悪かった。天保の大飢饉(天保4年に始まり天保7年、8年がピーク、天保10年までつづく。江戸三大飢饉のひとつ、東北地方の被害が大きかった。各地で一揆や打ち壊しが頻発した。天保8年の大塩平八郎の乱の原因となっている)。その対策は藩によって様々。上記の渡辺崋山が家老を務めた小藩・田原藩では崋山の対策(役人の綱紀粛正、倹約、民衆の救済を最優先(米の放出など)が功を奏し。飢饉を乗り越えた。
館林、太田も大丈夫であった。
柏崎はまずかった。餓死者も多く、しかも米を高値で転売できるため、大阪などで売ろうとした商人(利のみ追求する、いつの時代も生息。商人のDNAなのだろう。近江商人のように三方良しなら、良かったのだが・・・。)が米を藩外に売れるように代官(桑名藩の飛び地であり代官が行政の任にあたっていた)に賄賂をおくった。代官(伊藤という人物)はそれを受け入れて、藩の外へ米を持ち出して高い相場で売れるように法を変えてしまった。私腹をこやしたのだ。
※飢饉の対処方法として、藩内の米を外部に持ち出し禁止にする。藩が米を徴収し、または藩外で流通している米を買い取り備蓄し、飢饉対策として放出する「義倉(ぎそう)」政策をとるのだ。桑名藩も初めはそうしていたようだ。
結果、柏崎で米は高騰し庶民は入手できなくなった。ますます餓死者が増える。
      ●
この情況は大変まずい。
萬はこうしたことを黙認できる性格ではないのだ。(熱血、直情、実行タイプ・萬の血が覚醒してしまった。火中の栗を拾いまくる萬だ。しかも萬に心酔する同志が増える。もうどうにも止まらない!「代官に天誅だ!」やばいね!
(2014年7月19日アップ)

いよいよ、生田の乱が始まる。

乱の経過は以下をお読み下さい

[天保8年5月30日]
萬の一行(萬+5人)は間瀬村から船に乗る。(海辺を遊覧したいといって、 船を借り船頭ほか2名を雇う)船頭らを恫喝して、刈羽郡荒浜村に船をむけさせた。到着したのは深夜。
● 決起メンバー
生田 萬
鷲尾甚助
鈴木誠之助
小野澤信義
古田喜一郎
山岸嘉藤次

(※註 参考資料によって人名がかわります。)


[6月1日 午前2時]
(その夜、ハツ頃。真夜中だ!)
荒浜村の割元を勤めていた新平という者の家へ押し入り、抜刀し、 窮民を救うために金を要求。有り金を奪う(約10両という) 他にも数件の富豪の屋敷を襲い、金銀穀物の類を奪い、或いは火を放ち、慌て騒ぐ村民の前に奪った物を一切投げ出した。
窮民を救うのだからと、ともについてこいと扇動。 荒浜の村民8人と船頭一人を加えて15人の集団になった。 用意した「奉天命誅国賊」「※請天命救国民」と書いた旗を押し立てた。(※「請天命救国民」または「集忠臣救窮民」(相馬御風著では))

[午前6時]桑名藩の柏崎本陣に到着。 萬ら3人が陣屋内へ突入。鈴木誠之助の獅子奮迅の働きで数人が斬られたた、勢いがあがる。 しかし応援が増えて形勢逆転、斬り合いになり、鈴木誠之助が討ち死に。萬も重傷を負ってしまう。鷲尾甚助、古田喜一郎のふたりは陣屋前の川に架けてある橋の上で人々の通行を遮断。 そのうち役人が集まりはじめ、乱闘になり形勢逆転。 重傷を負った萬を山岸が背負って陣屋を脱出。
途中、鷲尾と古田と合流して海辺へ逃げる。
追っ手がせまるなか、萬は砂浜で割腹。追手の銃弾で古田は倒れる。山岸もこれまでと自害。 鷲尾甚助だけが皆を介錯した。山岸の首は海へ投じ、萬の首を抱いて立ち去った。
その時、生田萬、37才。
首を持ち去った鷲尾はどこに萬の首を埋めたのか不明。 鷲尾は逃げ延びて江戸に出る。ことの真相を訴えるためだ。その後、牢獄で病死した。

【もうひとつの悲劇。妻・生田鎬
陣屋の役人たちが萬の家を囲み妻子を捉えて獄に入れた。尋問にも夫の大事に関してはひと言も言わず黙秘。 ついに牢屋へ監禁される。 妻・鎬は貞淑な烈女。一切の食を断ち、幼い子どもも母に倣って食をとらない。
「生きて恥を見るより死して父上のおそばに至らん。母も死ねば、汝らも死ねよ」と 長女みや(6才)次女とよ(3才)を絞殺し、 自らは舌をかみ切り、二人の遺児を両脇に抱えて守るように絶命した。 少しも取り乱した様子はなかったという。
鎬女も和歌を嗜んだ。 3首伝わる。
  雪よりも脆きは君がいのち毛の筆の跡のみ消えのこるかな。
  手弱女(たをやめ)の数ならぬ身も一筋に、迷いはいらじ背の山の道。
  武夫の手ならす弓に二筋を、かけてひかめや大和だましひ。

鎬は館林藩士香取家の娘。もちろん館林生まれだ。武家の鏡。
その時、生田鎬は34才であった。

乱の翌日、 米価は急落し、窮民は救われた。
生田萬は義民として新潟の人々の記憶に残る。
しかし、代償はあまりに大きかった。 合掌!
(2014年8月2日(土)アップ)


【参考資料】生田萬肖像画肖像画は、その頃(生田萬の乱)の人(作者不明)が、「柏崎軍記」と題した書物の挿絵として 用いた素描画(スケッチ)を「尊王救民・生田の旗風」の著者、甲子楼主人が模写したもの。
生田萬の印象を強調して描いたものだ。 眼光に特徴のある人物だったらしいので目がサッカーの本田選手みたいに強調されている。 鼻筋が通り、面長、下ぶくれ、小太り。 (眉間に刀傷もあったという)萬の風貌がわかる。
       ●
【ヒゲについて】武家のヒゲは江戸時代初期を除いて禁止されていたので、尊皇家らしく、幕府に対して反体制であることを表現したのだろう。(神話のスサノオ尊などは立派な髭を蓄えていた。)
 註)幕府は1670年に「大髭禁止令」を発令、大名・旗本・武士のヒゲ(大髭)を禁止した。黄門さまのヒゲは後世の創作だ。

【参考までに他の肖像画】
面長、鼻筋が通るという特徴はつかんでいるが目がしょぼしょぼ。
生田萬肖像画02

【生田萬の筆蹟】萬自筆の和歌生田萬の美しい筆蹟(自筆)
画像は「義人生田萬の生涯と詩歌」相馬御風著 (春秋社刊 昭和4年発行)より (2014年7月15日制作)

【参考図書】
「義人 生田萬の生涯と詩歌」
相馬御風著
春秋社刊 (昭和4年発行)
相馬御風といえば、「都の西北・・・」で有名な早大校歌を作詞した作家で、新潟出身。新潟の義人・生田萬のことを世に残すためにこの本をまとめた。
 内容は萬の伝記と歌集。そして新潟で生田萬研究の第一人者「甲子楼主人が著した「生田の風旗」も収録されている。貴重な本だ。
似顔絵も自筆の和歌の筆蹟もこの著作から引用。
[画像引用について一言:古い書物なので、著者も亡くなって50年以上経過しています。著作権はありません(念のため、しつこいね。)]

館林人物誌「館林人物誌」
福田啓作編、昭和16年3月8日発行。
発行群馬県邑楽郡竪林町役場


他の参考文献
「生田萬事蹟補遣」寺島錬二著
(館林郷土業書/館林図書館発行
昭和13年刊)

「類聚伝記大日本史 第八巻 神道編」
山本信哉著 雄山閣版 昭和11年刊



【渡辺崋山資料】
毛武遊記
「毛武遊記」
天保2年(1831)、渡辺崋山39歳の時に妹・茂登子の嫁ぎ先である、桐生の岩本茂兵衛の所へ遊びに行ったときの紀行文。江戸より中山道を上る。板橋→蕨→浦和→大宮→上尾→桶川→鴻巣→熊谷。中山道を外れて、妻沼→太田→桐生着。桐生を起点に足利にも足を伸ばす。(足利学校を参観)残念ながら館林には来てない。