長澤理玄(ながさわ りげん)1815〜1863(文久3年)

館林と山形で種痘の普及に尽くした蘭方医。 ふたつの郷土で、多くの人命を救う。館林にこんな立派な人がいたことを誇りに思う。
理玄への恩返し企画「長澤理玄プロジェクト」始めました。(2013年10月スタート)

長澤理玄種痘の図長澤理玄 種痘の図(上州初の種痘は鷹匠町にあった家老・ 岡谷瑳磨介邸で四人の子ども達に接種された。(イラスト:泉雅史2013年6月制作)

以下、ブログ【偉人録】からの引用です。
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山形藩主秋元家の侍医・長沢周玄の長男として、文化12年(1815)山形城下横町口に生まれる。父の周玄は、温厚篤実な性格で、多くの門弟を育て、山形一の名医といわれ、漢方医術のほか蘭方の外科術にも通じていた。弘化2年(1845)藩主の秋元家が上州館林(群馬県館林市)へ移封されたため、長沢家も館林へ移っている。嘉永2年(1849)理玄は、医術修行のため江戸へ出て、桑田立斎(りゅうさい)の門に入り種痘術を学んだ。 痘苗を入手して、これを館林で接種しようとしたが、館林の人々はこれを危険視して応じる者がいなかった。

(田中註;1850年頃は、適塾の緒方洪庵が種痘を始めた時期であり、日本における牛痘のワクチン治療としては早い(1949年に長崎に種痘所がオランダ人医師によって開設)。江戸で普及するのは1958年に手塚治虫のご先祖・手塚良仙らが神田、お玉が池種痘所を開設してから。なんと、それよりも早いのだ。素晴らしい先駆者だね。)

重臣たちのなかでただ一人、岡谷瑳磨介(家老・おかのやさまのすけ、田中註)だけは理玄を支持し、自分の子供に種痘を植えさせました。 そのかいがあり、数年後に流行した天然痘にもかからずにすみました。種痘に反対を唱えていた杉本と岡村の子供は発病し、醜い痘痕を残してしまいました。理玄はこの成功に自信をいだき、種痘を熱心に説き回りましたが、なかなか理解してもらえませんでした。

理玄は熱心さのあまり、道で遊んでいる子供をつかまえて、むりやり種痘を実施したりしたので、非難を受け、自宅に石を投げられたり、襲撃されるなどの迫害を受けるようになりました。
このような事態がつづいたので、理玄は館林における種痘の普及を断念せざるをえなくなってしまいました。

『あ〜あ、今も昔も館林の人の性格(当時の日本全国、どこでは最初は同じ反応だが)あまり変わらないね。でもおかげで、山形の多くの人が助かったのだから結果としてOK。田中註』

そこで、秋元氏旧領の山形には、父の周玄の門弟たちも多く、知人も多かったので、種痘の実践とその普及をはかるために、単身で山形にいくことを決意するにいたりました。

羽州山形地方へ赴き、種痘普及に努めた理玄の功績と成果は、館林藩分領漆山陣屋を通して館林藩に伝えられた。その評判は無視できないほど大きなものであったからに他ならない。そのため、館林藩でも、重い腰を上げて種痘の普及に努めざるを得ない状態に置かれたのであった。
早速、藩主名をもって、領民すべての者が種痘を受けるようにという「触れ書き」を回した。施し料は無論藩費で賄うという布告が出されたのである。
・・・
安政四年(一八五七)六月、館林藩は旧来の「求道館」を拡充するかたちで、文武両道の道場として「造士書院」を開館させた。
造士書院マップ
場所は今の城町の東端辺りといわれる。理玄はそこの医学頭取の師範約として推挙される。理玄はこのとき働き盛りの四十三歳という年齢であった。

万延元年(1860)理玄は藩主秋元志朝からその活躍に対する褒美として館林字金山(現大手町二番)に七反(約二千百坪)の土地を譲渡された。
譲渡されるにあたってば、長期の療養者を泊めておく施設を造りたいという理玄の理想を伝え聞いた岡谷瑳磨介が、藩主志朝に口添えをしてくれたことが発端だった。

その土地は、東に浮島弁天といわれる竹生島神社と、館林城の外濠である城沼を控え、南は青田を隔てて一面の桃林が連なり、その彼方には富士の霊峰が望めるというすこぶる眺めの良い高台にあった。

『金山は館林二小(南小)から道路を隔てた北東の場所にある。二小は湿地帯(田や蓮田、江戸時代は蘆の原で城沼の西端)だっだ場所を埋め立てて造成。金山はそこに隣接した、ほんの少し高台(2〜3メートル地盤が高い場所で金山の北が鍛冶町。そういえば、二小(南小)の2階の窓から富士山が見えた、冬の天気の良い日は授業中富士山を見ていたなあ。田中註』

その土地に、理玄は藩主に献策した上で、念願だった長期療養者のための建物を建てたのである。建造費は当然自費で賄った。
建造した建物は東西に長く、一棟に四、五戸と間取りにより異なり、全部で十二棟という長屋形式の大規模なものであった。そのなかには診察や診療のできる部屋はもちろん、薬剤調合室や人体の切開などのできる設備を備えた部屋も造成した。
長澤一家の居宅も当然、含まれている。そして領民は、その建物を「種痘館」とか「長澤廓」、あるいは「疱瘡長屋」、「長澤長屋」などと呼んだ。

『館林二小(南小)の隣に長澤長屋、疱瘡長屋があったなんて、自分のテリトリーの中なのに、知らなかった。今は知らないが、当時の南小では教えてくれる人はいなかったね。記念碑的なものも無かったと思う。ほんの150年前の偉人の足跡が近隣在住の人間にも伝わってなかったなんて恥ずかしいよ。こうしたことを知らせるのも「館林城の再建をめざす会」の大切な活動のひとつ。田中註』

理玄はその後、館林と山形を数回往復し、種痘の普及に尽くし、館林藩でも種痘の必要性をようやく認識しはじめ、藩主の名において藩内すべての幼児に種痘をするように指示を出した。藩の援助によって、領民は義務的に接種を行い、文久3年(1863)に理玄が亡くなるまでに、理玄が直接に種痘を施した者は8,941名に及んだといわれている。

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以上、コピペでした。一部、編集と補足説明を入れてみました。あしからず。







長沢理玄表紙

「長沢理玄」遠山椿吉 著 大正7年
画像は近代デジタルライブラリーより長澤理玄の生涯「疱瘡長屋の名医」
種痘に賭けた長澤理玄の生涯
石村澄江著 あさお社 定価1000円+税 (2013年2月11日、アマゾンにて購入)

館林在住の作家・石村澄江さんの労作。理玄の事跡だけでなく、秋元時代の館林城下の様子もわかる。鷹匠町生まれの私は、著作に書かれた町の所在が手に取るようにわかった。実に楽しい経験。そして、長澤理玄の素晴らしさを再認識。
このサイトで詳しくとりあげ、すこしでも多くの館林の人に理玄の偉業を伝えたい。そして、長澤長屋のあった金山に(友人も住んでいるので、町内会へ働きかけて)、長澤理玄の顕彰碑を建立したい。(だって山形では既に建っているし。ひょっとして館林にあるのかも知れないが)