岡谷繁実(おかのや しげざね)1835〜1919(大正8年)

192人もの武将の言行をまとめた。
歴史小説作家必携の書「名将言行録」を記した。
尊王攘夷派の志士としても活躍。
(郷土の偉人として)田山花袋をすでに越えている。
「岡谷繁実資料館」が是非とも必要だね。

2012年7月書店で偶然手に取った雑誌「歴史人」。館林藩士の文字が目に飛び込んできた。そこには、なんとあの有名な「名将言行録」の作者が館林の人ではないか。思わず雑誌を買ってしまった。館林城のことを研究していると、情報が向こう側から飛び込んで来る。不思議だ。
以下岡谷繁実の略歴をどうぞ。

1835年(天保6年)、山形城内に生れる。山形藩(秋元藩主)
1845年(弘化2年)、藩主秋元氏は館林藩への国替えを命じられる。
1846年(弘化3年)、春、藩士一同山形から館林へお引っ越し。(お国替え絵巻の作者山田音羽さんの実家は岡谷さんなので、親戚かもしれない。家格もほぼ同じだし・・・。(同じ一族でした。2013年2月追記)
1847年(弘化4年)、家督を継ぐ。
1854年(安政元年)、『名将言行録』を書き始める。
1860年(万延元年)、藩の許しなく上京、朝廷に攘夷を建言し、勅使の東下を請願する。
1861年(文久元年)、無断上京の罪により降格処分を受ける。
1863年(文久3年)2月、世子秋元礼朝の侍講となる。12月、中老役になり、
1864年(元治元年)2月、征長回避を周旋する。4月、藩命により長州に赴くが、そのため幕府の嫌疑を蒙り、10月に藩から禄を奪われ蟄居を命ぜられ、武州深谷に居を移す。
1868年(明治元年)、大坂遷都に反対し、蝦夷地経営に適する江戸への遷都を建白した
(同年7月、東京奠都の形で実現する)。高松保実に仕え高松家の家老となる。草莾義軍の高松隊を結成、参謀となり、甲府へ先着するも無許可出兵であったため帰還を命ぜられる。
1869年(明治2年)、岩代国巡察使に随行して会津へ赴任、8月、若松県大参事に転ずる、
9月、会津松平家再興を建言、10月、知人の罪への関与を疑われ広島藩預かりとなる、
11月、知人に連座して免官。『名将言行録』初版刊行、その後も増補改訂を続ける。
(詳しくはwikipedia-岡谷繁実を参照)

【岡谷繁実、学問と武術の履歴】

秋元家中の名門であった岡谷家の長男とした生まれた繁実の文武両道の教育変遷は興味深い。日本が幕末の混乱を乗り切り、欧米列強に浸食されなかったのは、ひとえにリーダー層の人間力の高さだ。その力は勉学の力、それも画一的なく、個性的な私塾の先生のもとで真剣に学んだことがエネルギーになっている。司馬遼太郎の著作の多くをみても、主人公達はものすごく勉強している。
岡谷繁実もその例にもれず、勉強熱心だ。
幼少期の家庭内での勉強は当然ながら、記録に残っているものだけでも以下の通り

●天保14年(1843)9歳、儒者・田中金治(泥斉)の門に入門。漢籍を学ぶ。
●筆学を加藤弥左衛門、高山瀬兵衛、田村作右衛門に学ぶ。
●山鹿流兵学を土屋鉱八郎に学ぶ。
●小笠原躾方を酒井車交(こう)之助に学ぶ。
●雪爪派弓術を三科次郎左右衛門(三科文次郎の父か?)、宮原斧之助に学ぶ。
●大坪流馬術を山下茂十郎に学ぶ。
●鏡智槍術を岡村庄太夫行親、後藤又五郎に学ぶ。(初伝をとる)
●直心陰流を飯塚剛一郎に学ぶ(「剣術修行の旅日記」永井義男著に名前が)
●牧田流砲術を牧田貞次朗に学ぶ
●算術を塩谷三平に学ぶ
 以上は18、19才ころまで続いた。

私は、武道を修行しているので、(空手と沖縄の古武術)これだけ多くの武芸が150年前の館林で学べたことに羨望をおぼえます。多くの優れた身体動作が維新によって失われてしまった。こうした武芸のノウハウは形に残せないため一度失われると二度と復元できない。繁実が受けた当時の教育システムが実にうらやましい。
(こんなことを言っていられるのは太平な世の中だからとはいえ、多くの流派が消えてしまった。実に残念無念)

繁実の学問歴はまだまだ続く。
●嘉永3年、藩の学問所「求道館」寄宿入学
●嘉永5年、江戸へ出て高島流砲術と蘭学(杉田玄白の孫に)を学ぶ。
 安政3年、繁実は藩の高島流砲術世話役となる。
●安政4年、水戸へ遊学。青山塾へ入学
●安政6年、江戸で昌平坂学問所へ入門。書生寮へ入寮。同僚に長州藩の高杉晋作がいてふたりの武勇伝も残っている。佐藤一斎の講義を受ける。田口文蔵(江村)に入門。
●万延元年(1860)繁実26才。江戸の修学を終える。

その後も学問仲間と勉強会を続け、当代一流の学者、志士と交流する。
●「文会」江戸での勉強会。メンバーは師の田口江村、藤田東湖、安井息軒、藤森弘庵、芳野金陵など、ビッグばかり。

【 岡谷繁実、勉学中のエピソード。松陰に意見する】

●安政元年、繁実20歳の時に、吉田松陰、宮部鼎蔵に合い議論を展開した。
繁実は吉田松陰に、身だしなみを注意した。松陰先生、不潔すぎたのだ。
松陰先生は、風呂入らず垢だらけ、服も破れている。頭はボサボサ、顔も洗わず、ひげもぼうぼう。汚いね。しかも激論家。
外見が汚いし、激論家では誤解をうけやすいので、気をつけてね。と忠告。
松陰いわく「ねい人俗吏何ぞ、恐るるに足らん、こびへつらう人のために生き方をかえるわけにはいかぬ。人の志は、死して棺をおおうとき決まる・・・」と語ったという。有名なセリフだ。 
その翌月のこと、松陰は海外密航を計画し金子重之助と下田に停泊していた米艦に潜入したが、失敗。その理由のひとつが、松陰はあまりに汚くて(顔は疱瘡のあとがあり、あばたづら)手に疥癬できていて、ボロボロ。不潔だったので、船長が拒否したのだという(徳富蘇峰談)。事実なら繁実のいうとおりだね。
 繁実は小笠原流の躾も習っていたから、5才年上とはいえ松陰にひとことアドバイスしたかったのでは。

歴史のイフ。松陰が繁実の忠告に従っていたら、無事アメリカへ行き、見聞を広め、しかも安政の大獄で死ぬこともなかったかも。歴史が変わっていたね。
でも、松下村塾の教育も無理なので、明治の元勲もどうなったか?イフ。

【名将言行録】

安政元年(1854)繁実20才の時、江戸詰めで使番という役職にあった。江戸にいた三科文次郎をさそい、横浜村にペリーと幕府の応接を見学に行く。米軍の装備や軍艦の操縦、兵士の迅速な行軍、そして米軍の横暴さ目撃した。圧倒的な西欧の科学技術と戦力を確かめた繁実は、当時の日本が置かれた不安や無能感を払拭するために、この年、ライフワークである名著『名将言行録』を執筆開始する。アメリカによって受けたダメージをどこかで跳ね返さなくてならない。それが日本人のプライドを取り戻すこと。執筆の動機であった。
動機の根拠は繁実が書き残した「年譜」に記されている。以下参照。

・・・六月八日、洋人、陸梁(りくりょう)スルサマ、切歯慨嘆ニ堪ヘズ。コノ日ヲ以テ『名将言行録』ヲ起草ス・・・・
(出典:「 岡谷繁実の生涯」215P)
 繁実はその後明治2年(1869)35才までの年月をかけて完成した著作であるが、その後も書き続けている。
名将言行録は戦国時代の武将200人を選び、我々の学ぶべき言行を抄録したものである。そのために探し集めた参考図書は約1300部の多さに達したという。
 明治2年にとりあえず、完成。出版を玉泉(山)堂の稲田屋佐兵衛に一任。明治9年以降に出版。
 明治17年増訂。さらに明治29年改訂版を出した。さらに版を重ねて明治43年には十二版まで続刊している。これって明治のベストセラーじゃないのかな。ただ版ごとの発行部数が不明なので詳細はわからない。(まあ発行部数は現代の書籍出版でも不明瞭。これは業界の常識)
 評価も高く、元勲・伊藤博文は本書の愛読者であった。(秋元興朝談)
早大総長・大隈重信は推薦の序文を書いている。また、菊池寛は本書を「年来の私の愛読書」だと賞賛し、しかも自ら『評註名将言行録』を出版した。ぶらぼー!

その後、戦前の昭和18年に岩波文庫に収録、9月30日出版。

時代は戦後になり、封建主義という誤解により本書は不遇な時迎える。ようやく時代が落ち着いてきた昭和53年(戦後33年もかかった)新人物往来社から『定本名将言行録』、昭和55年教育社から発行された。最近では2008年10月PHP社から『名将言行録 新訳』が発売されている。

そして、現代。評価は不動のものになった。
多くの時代小説作家が小説の基礎資料に「名将言行録」を使用している。そして、そのことを憚ることなく、むしろ誇らしく公言し引用している。
 2013年『等伯』で直木賞に輝いた阿部龍太郎も著作のなかで「名将言行録」のことを出典として述べているので、時代小説ファンのかたは、既にご存知ですね。


【 岡谷繁実を調べてみて思うこと】

江戸時代というと、なにかと封建社会をイメージして、行動がひどく制限されていると思ってしまう。繁実の履歴を調べると、江戸に学んだり、水戸に遊学したり、謹慎中でも勝手に京都へのぼったりと、結構自由じゃないか。固定化された封建社会のイメージがあっけなくくずれてしまう。やはり時代は幕末なのだろかう。坂本龍馬のような志をもった人たちが沢山いたのだ。 それにしても、館林藩の上士だから余裕があるのかもしれないが、繁実は活動的でやりたいことをやっている。江戸時代って結構、元気だった。戦後生まれが受けた歴史教育のイメージとかなり違うなあ。
名将言行録M2「名将言行録」玉泉堂 目次 近代デジタルライブラリーより
岡谷繁実の著者名に館林と書いてあるのが嬉しいね。
名将言行録見本
ネットで検索しキャプチャーした「名将言行録」の誌面。
わが一族と関係が深い田中吉政のページ。

後世に影響を与えた「名将言行録」、沢山の関連本があり、原典はネットでも読めます。

岡谷本01
岡谷本02
名将言行録表紙

岡谷繁実

岡谷繁実、肖像写真 岡谷肖像写真 館林双書「岡谷繁実の生涯」に掲載された肖像写真

歴史人表紙月刊「歴史人」kkベストセラーズ社発行
定価:680円
2012年8月号の54P〜55Pに「名将言行録」の記事が掲載されている。また、「名将言行録」からの引用が多く記載されている。岡谷表紙館林双書第23巻「岡谷繁実の生涯」
工藤三壽男著 2100円
とても読みやすく、しかも詳しい。繁実研究の決定打。
浮世能夢館林双書第25巻「浮世能夢」
岡谷繁実著 川島維知/注釈 1600円
少し読みにくいが、内容が興味津々なので、一気に読んでしまった。
館林双書はすばらしい。絶版になる前に是非購入してください。(2013年2月現在、在庫アリ)