岡谷瑳磨介(おかのや さまのすけ)
1807(文化4年)〜1865(慶応元年)

家老職に抜擢され
館林藩の藩政大改革を行う。
進歩的で革新的な事業を遂行し、
館林の活性化に大きく貢献。
その政策は今でも輝きを失わない。

岡谷瑳磨介の家系図(田中茂雄作成2014年6月)。文化4年(1807)、山形城内で生まれる。母は賢才の誉れ高い 岡谷喜津。(館林人物誌より)長女は音羽(山田家へ嫁ぎ、「お国替え絵巻」の作者として有名)。二男は国文学者の石川直幹・なおもと。長男・勝規(鉄之進)が若くして亡くなり、三男の瑳磨介が 岡谷家を継ぐ。
秋元藩の名家。

詳しくは下記の家系図を参照。瑳磨介系図

瑳磨介の諱(いみな:本名)は勝益。号は撲斉と称した。後に兵八郎とも名乗る。
岡谷家は上士の家であったが、台所事情は他の藩士同様に苦しかった。
(藩全体が苦しかったのだ)瑳磨介がまだ少壮のころ、遊学する余裕はなかった。同藩の高山弥六、尾関助六に学ぶ。多岐にわたる豊かな学識は独学。努力の賜であった。
西洋の事情にも詳しく。ジェンナーの牛種痘も知っていた。
田山花袋の兄・実弥登は著書「埋れ木」のなかで、瑳磨介のことを天才と讃えている。

瑳磨介は経史(経済学)。星学(天文学)、算術、骨相学までも習得した。
また、家系的(母の喜津、姉の音羽さんがすごい)にも書画の才能に恵まれた。多芸多才であった。なかでも理財の法こそ瑳磨介が最も心砕いた学問であった。藩を立て直したいという気持ちからであったし、自身の育った環境も理財の法を必要とした。
名家に生まれた世間知らずのお坊っちゃまクンではない。

山形時代。結婚しこどもが生まれた頃のエピソード。
岡谷家はあんどん(照明器具)を二つ使うことが(経済的に)許されなかった。灯油を買うお金の余裕がなかったのだ。(幕末の武家の困窮ぶりは、ベストセラー「武士の家計簿」(磯田道史著)でも詳しく述べられている)
夜、妻・てつ(東嘉衛門の娘)さんが、あんどんのほの暗い明かりで針仕事する。その間、瑳磨介は幼子の面倒をみている。針仕事を終えた妻が就寝した頃、瑳磨介はあんどんを使い読書をしたという。このエピソードは 岡谷家以外にも山田家にも伝わっている。

岡谷瑳磨介(兵八郎、諱・勝益)履歴
------------------------------------------------------
●文化4年(1807):山形生まれ。
●文政10年(1827):20歳。御番方に勤務。
●文政11年(1828):21歳。東嘉衛門の五女・鐵(てつ)子と結婚。
  岡谷家は借財が多く、困難な生活をする。
(あんどんひとつのエピソード)
●天保元年(1830)3月:23歳。
  肝煎になる。9月、江戸在番を命じられる。
●天保2年(1831):山形へ戻り普請奉行、寺社奉行等を歴任。
 ※ この年、志朝(ゆきとも)が秋元家の家督を継ぐ。
●天保14年(1843):用心格に進む。
●弘化3年正月:中老見習い抜擢。
(館林への国替え決定が弘化2年、実際の移動は3年)
●弘化3年(1846)8月:39歳。
 館林へ移る。次に江戸在番を命じられる。
●嘉永元年(1848)4月:41歳。
  中老役就任。藩主・志朝の意向もあり藩政の大改革へ。
  ※館林藩の財政は火の車であった。借財50万両ともいわれ、
  移封や館林の水害なども重なり財政の改革が必須であった。
●嘉永4年(1851)5〜6月:瑳磨介の4人のこどもに館林藩医・
  長澤理玄
が上州初の牛痘法による種痘を施す。
●安政2年(1855)10月: 江戸の大地震発生。
  館林藩江戸藩邸被災。死者26名。これを契機に改革が進む。
●安政4年(1854)6月15日:47歳。
  藩校・求道館の拡大振興を図り文武併教の造士書院を設立
●万延元年(1860)4月:53歳。
  年寄役に就任。息子・荘三郎を使節としてアメリカへ派遣。
●文久3年(1863)11月:57歳
  時代の熱(攘夷)に感染した館林藩の攘夷派有志(9人)による断髪組事件が起こる。当時、江戸詰家老であった瑳磨介の屋敷(呉服橋の館林藩上屋敷にあった瑳磨介宅に進入し「訴状九か条」を読み上げ辞任を強要した。 (現在の視点から判断すると、やはり暴挙。愚かなことをしたものだ。恥ずかしいね。こどものように視野狭窄で独善的。当人は熱にほだされて楽しそうだけれど。館林にとって大きなマイナスだった。)
●同年11月12日、役職を辞し隠居。体調を壊す。
1年半後亡くなる。(ストレスに違いない)
●慶応元年(1865)4月5日:病没。59歳。館林法輪寺に眠る。
-----------------------------------------------------
※館林へは39歳から、ほとんど山形の人だ。 ただし、活躍するのは館林でのこと。

▲「館林人物誌」(昭和16年刊) 岡谷瑳磨介の紹介ページ。近代デジタルライブラリーより一部引用。
瑳磨介邸宅瑳磨介の住まい。 岡谷兵八郎と記されている。(進藤家所蔵・秋元時代絵図より)
左下に木呂子の苗字がある。断髪組事件では瑳磨介を批判する立場に。

【岡谷瑳磨介の藩政改革】
 財政再建と人材育成。


1)経費削減策。「江戸藩邸の経費削減」
岡谷瑳磨介の基本政策はお城のある館林を経済の中軸と定めて、領内の歳入は全て館林に集約し、江戸および山形(分領がある)の経費は額を定めて館林より支出し、江戸定府を廃して在番としてその常任者は館林に移して経費の削減を図る。
江戸での生活は贅沢になりがちになり経費がかかった。
しかし、この政策を不満とする人たちも少なからずいた。安政2年江戸に大地震。藩邸は壊れた、死者26名。これを機に瑳磨介は江戸藩邸の経費削減策を実行する。藩主を説得して改革を実行することに。安政3年3月改革の趣旨を説明し、これより江戸の諸藩士を順次、館林へ移した。
改革の推進者として瑳磨介を抜擢したのが、家老の太陽寺典膳盛明。太陽寺も改革の推進者であった。
2)殖産興業策。収入に繋がる商品作物の奨励「お茶」「桑」「椿」など
安政4年、館林の大谷原、高根の荒れ地を開拓して茶の木を栽培。指導者を招き製茶を産業とした。茶の苗木は京都の宇治から取り寄せた。
安政6年、製茶部を新設、下総の染谷氏を招き製茶を行う。さらに、宇治茶の製法を研究し城外地・数百町歩(下記に詳細を記述。開墾した茶畑は合計80町1反1畝歩、プラス城内の垣根や空き地を加えて数百町歩)に茶を植えた。製茶師・大谷留吉氏を京都・宇治から招聘して、製法を下総宇治と宇治の二派にわけて競わせ、研究させた。(スゴイね)
結果。品質極めて良好な製茶を数千貫得ることができた。市場の評判も良好であり、大成功!
「館林茶」のブランド化に成功したのだ。このブランドを復活させない手はないね。良いブランドの背景には、歴史ある物語が必要!それがここにある。町おこしのヒントはこれだ!

【余談】私が生まれた鷹匠町833番地は 岡谷瑳磨介宅(館林)に隣接した場所で、土地の境界にはお茶が栽培されていた。鷹匠町833番地の土地の所有者は南條さんで新六郎さんの家だ。そのお茶の新芽を摘んでお茶にして飲んだこともある。
まさにそれは瑳磨介が植えたお茶だ。ほんとうに奇遇としか言いようがない。感動!
お茶の木は昭和30年代まであった。
その後、モータリゼーションの時代になり駐車場になってしまう。茶の木はもうない。

他に、麻裏物産会所および機(はた)業所を設け、藩の婦女子の手工業を奨励した。
こうした商品は現金収入となり家計を助けた。
これらの殖産計画は成功し藩の財政は好転。余財を生じ、その額はなんと約20万両を越えたのだ。藩の債務も10年をまたずして返済され、なおも余剰資金まで。
(資料「館林人物誌・ 岡谷瑳磨介」より)

3)人材育成。「藩校・造士書院」洋学を取り入れる。
弘化4年:藩主・秋元志朝は従来の学問所を改組して求道館と名付け開校。(国学と漢学教育)
安政4年:藩政改革の一環として瑳磨介の意見具申により大改革。藩校の名称を「造士書院 」とし、経史文学を講ずる求道館、新たに兵学を修める兵機堂、武技を学ぶ演武所、医学を修める医学所、さらに童生素読、手習、礼節の稽古所として就外舎も併設。
組織・内容とも充実した文武併教の殿堂であった。(今あったら、通いたい)
造士書院の教育内容の特色として蘭学教育がある。
岡谷瑳磨介は常に広く西洋の訳書を読み、進歩的な思想の持ち主であった。洋学の実利性に着目し蘭学教育を取り入れたのである。

瑳磨介は造士書院を開校するにあたり近隣諸藩の藩校の調査・研究のため視察派遣。儒学者・田中金治、兵学者・村山勘解由を水戸、佐倉、笠間に派遣している。水戸藩は軍備の面で、佐倉藩は医学(順天堂)の研究で進んでいた。

また、館林藩内の文武の秀才を選別して各地に遊学させている。
●文学修業→ 岡谷繁実(水戸へ遊学)
●西洋流砲術→村山勘解由(江戸派遣)
●剣槍二術→山本弥太郎、中根銀蔵、鈴木栄吉、伊草加守(全員江戸へ)
●蘭学修業→ 岡谷荘三郎
●文学修業→高橋漸之進、田中謙三。島田四朗、加藤弥太郎、小林鐵次郎、松島貞吉


以上。 資料「館林藩に於ける洋学教育とその背景」篠塚中著

続く
法輪寺のお墓の確認や、三の丸の石碑のチェックなどをしなくてはいけない。
再開。

【瑳磨介のお墓】

[2014年6月19日、法輪寺へ調査]
梅雨の季節とは思えない好天。湿度が低くからっとしたお天気。お墓探しはカラッとしたお天気でないと、気持ちが沈むよね。
瑳磨介のお墓は館林の法輪寺にある。法輪寺は私の実家のお墓があるお寺なので土地勘(墓感?)あり。なんと5分で探してしまった。すぐに出会えました。 というか呼ばれているね。合掌。
(※お墓アプリというソフトを作れば面白いし便利だ。東京の青山墓地などの著名人のお墓をグーグルマップで教えてくれるアプリ。あるといいね。墓マイラー必携のアプリになる。)

良い写真が撮影できました。
お墓の家名に光が差している。陰影が濃く表情のある写真。素晴らしい。
その後、我がご先祖様のお墓を掃除してきました。
 岡谷瑳磨介 お墓
墓石はさすが家老職を勤めた家柄。 堂々とした作り。
岡谷氏の文字が美しい。彫りも深くてすばらしい。墓石の裏面に兵八郎勝益と刻まれていて、瑳磨介が建立したお墓だ。正面の 岡谷氏之墓の文字も瑳磨介かもしれない。
一般的に家と書く。(墓石屋さんに一任したら、岡谷家と刻むだろう。)書体も伸びやかでケレン味もなく、とても素直で気持ちの良い書だ。瑳磨介の性格そのものだ。(温護院だもの。)

側面右端に賢才で著名な白蓮院こと岡谷喜津(瑳磨介の母)の戒名「白蓮院安住妙證大姉」安政4年(1858)正月7日卒(81歳) も刻まれていました。
瑳磨介の戒名は「温護院清涼勝益居士」(読み間違いしていたらごめんなさい。)慶応元年(1865)4月5日卒
温護院とは瑳磨介の性格を表していて、とてもいい名前だ。(「埋れ木」の作者・田山実弥登もそう記していた。)
瑳磨介の戒名の左隣に勝益妻東氏諱貞「慈門院華影暁夢大姉」が刻まれている。無くなったのは嘉永5年(1852)閏2月19日卒と読める。妻は先妻の東氏てつさんか後妻の山田氏みちさんか不明だ。東氏と書いてあるので、先妻のてつさんだと病死で離別したのではないことになる。(これ以上詮索するのは止めましょう。探偵じゃあるまいし)
左端にこどもの戒名が書かれている。「春夢童子」嘉永6年2月2日卒。文字が読みにくいのだが、勝義(瑳磨介の息子・荘三郎のこと)□□(2文字読めず)俗名武一郎とかいてあるので、荘三郎の息子らしい。瑳磨介の孫のことだ。荘三郎は息子を亡くした2年後・万延元年にアメリカへ旅立つわけだ。荘三郎の写真が哀しそうなのはそのせいか。

家紋は左三つ巴紋。(武家の守り神・八幡社の神紋。武家に多い紋だ)
それにしても、これほど詩情溢れる戒名を見たことがない。
どれもポエムのように美しい。文化度が極めて高い一家である。
瑳磨介の父親は文政9年(1826)、山形で亡くっているので、山形の大寶寺に埋葬された。それで、法輪寺のお墓には父の戒名がない。また息子・荘三郎も明治になり宇都宮へ移住。宇都宮で亡くなったので宇都宮にお墓があるのだろう。やはり戒名は刻まれてない。法輪寺のお墓は岡野家にとって、館林で暮らした弘化3年(1846)から明治初年(1868)の頃まで、わずか20数年間のことなのだ。
追記)他人様のお墓のことを克明に記して申し訳ありません。これも館林の発展のためとご容赦ください。(館林城の再建をめざす会 会長・田中茂雄 m(__)m)
2014年6月19日(木)撮影。( 2014年6月20日アップ)

次の発表は、「安政の改革」の詳細を田山花袋のお兄さんである田山実弥登著「埋れ木」を館林図書館で閲覧、コピー。瑳磨介の事跡を紹介した貴重な本なのでじっくりと分かりやすく調査します。乞うご期待!
前振り・・・・。
疲弊した館林藩財政を立て直し、人心を一新するために教育に力を注ぎ、海外の進んだ情報も集め、改革を着実に進めた瑳磨介。館林藩でこうした人物が活躍したことは痛快。現在の館林の閉塞感を打ち破るヒントが盛りだくさん。
幕末の藩政改革で有名なのは調所広郷(薩摩藩)、福井藩の由利公正(三岡八郎)などだが、瑳磨介も規模は館林藩なので彼らと比較すると小さいが、その方法は互角以上である。(薩摩の調所のように借金踏み倒し(借金返済を無利子250年払い)をしてないし。福井藩のように横井小南という著名なブレーンもいないのだ。
瑳磨介の改革をもっと全国へPRすべきだ。売り出すべき。
時代小説家に資料を提供し、資金を援助し本を書かせるべき。
だれか物語を描ける、小説家を知らないですか!


『埋れ木』に詳しく記された
【安政の改革】


瑳磨介が遂行した館林藩立て直しである安政の改革案概要をそのまま記すのは芸がないし、目的ではない。改革の詳細は興味を抱いた人が、先人の労作を調べればすむこと。
「館林城の再建をめざす会」は館林に活力をもたらすことがメインテーマ。
館林のブランドイメージを高めるための素材を歴史の中に求めようというもの。

新たなブランド探しだ。しかも物語性のたかいブランド。
私が瑳磨介の改革で興味をもったものは二つ。ひとつは「お茶」これはブランドになると直感。もう一つは教育「造士書院」である。(教育・文化の高さは立派なブランドである)

●まずは「お茶」
瑳磨介は商品化できる農産物の奨励を図った。その中で成功したのがお茶。
種苗を山城国(京都)宇治から取り寄せて栽培した。
藩が開拓した茶畑は以下の通り。
館林領内の荒れ地であった大谷原を開墾し41町6反7畝歩の茶畑を作る。
青柳村に12町5畝27歩。高根村に9町3反2畝25歩。
羽附村に6町2反1畝4歩。 成島村に4町2反1畝4歩。
小桑原村に3町8反2畝25歩。城郭附に2町7反1畝4歩
合計80町1反1畝歩
(この数字は「埋れ木」からの引用)

また、製茶の資料としては「多々良村誌」に大字成島字小蓋の南にあった館林藩の大砲場(大砲の訓練をした射撃場)跡を茶畑として開墾。面積;東西18町、南北60間〜85間の茶畑で、茶摘み最盛期には1日80〜90人の茶摘みの女性が集まり、1日160〜170貫の生茶葉を生産。焙煎釜は60余りあり、40数名の茶師が多くの助手を指揮して製茶に従事していたという。
「館林茶ブランド誕生ストーリーだ」

註)参考、宇治市の茶畑面積は宇治市の統計によると、昭和30年171ha、平成13年82ha (約82町歩)なんと館林領内で開墾した茶畑の面積と現在の宇治市の茶畑の面積が一致したのだ。
※開墾した面積が80町歩でそれ以外の茶畑を足すと100町歩を越えるのだ。
瑳磨介がどれだけがんばったか、みんな褒めて欲しいね。ホント!
この明確な数字を確認して初めてその偉大さがわかった。調べた自分が一番驚いている。ありがとう瑳磨介どの。お疲れさまでした。

きれいな茶畑が広がる館林。清冽なイメージが館林に加わった。
「お茶と、和菓子と、小麦粉」いいね。(豊かな食のイメージ)
「館林茶」の復活と採算のとれる事業化。これこそ岡谷瑳磨介の意志を継ぐ館林人の責務だろうね。起業家集まれ!


その他、藩士の住まいの垣根や村落の空き地などにも茶を植えた。
合計で数百町歩になったという。
茶葉の収穫に合わせて、製茶師を宇治から招き製茶場を整備した。

註)瑳磨介は「諸木仕立掛」を創設。
お茶以外にも桑(苗を陸奥郡伊達町より)などの商品化作物(幕末直後、日本の輸出品にもなる作物だ。その炯眼に瞠目せよ!)を開墾・栽培するための組織、「諸木仕立掛」を創設。長官に山瀬新五右衛門を任命。事業を進めるにあたり効率よく組織的に動ける態勢を整えた。政治家・瑳磨介の素晴らしさだ。
茶・桑以外にも漆は熊本から、ヘタマ(?)は羽前国村山より毒荏(?)を駿河国吉原から。桐や漆の苗を領内農民の各戸へ2本以上配給し植えることまで決めた。
そうした、商品作物のなかで、最も成功したのがお茶であった。
検証)明治四年、廃藩置県の年に館林で産する物産の第一位はお茶であったのだ。
館林名菓「麦落雁」はお茶あっての落雁だ。お茶文化の復権が館林の再生の一助になると考える。課題:お茶の産地として館林をブランド化すべき。アイデアを模索すべし。


次回のレポートは
産業を起こす瑳磨介。
「麻裏草履」「機織物」で婦女子の現金収入大幅アップ。
カカア殿下の基盤を作ったのだね。(笑)
〈つづく〉

【参考資料】他藩の財政改革研究。
山下昌也著「大名の家計簿」

岡谷瑳磨介の藩政改革を調べていくと、どうしても同時期の他藩の改革例が気になってきた。福井藩の横井小南などの有名な改革例の資料は多いが館林藩6万石規模の藩の改革例が分からなかった。
2014年8月中旬、書店で偶然に出会う。山下昌也著「大名の家計簿」(角川SS新書2012年9月発行)という新書。知りたいことが丁寧に述べられている。これほど嬉しいことはない。
どの藩も多額の借金を抱え追い込まれた情況になってから、改革へ。
論語「窮スレバ変ズ。則チ通ズ。」 (私の大好きな言葉。ほぼ座右の銘だ)そのままだね。
成功した藩の改革は驚くほど似ている。原理は簡単。「出るを制して、入る多く。しかも入り方は多様」「抵抗勢力への対処」「強いリーダーシップ」「有用な人材の登用」などだ。どの藩も共通している。また、改革が成功した頃、明治になりその業績もうやむやに・・。これも共通している。この新書を読んで思うに瑳磨介の改革は見事であった。瑳磨介の幅広い知識と実行力に驚く。 館林藩の藩政改革もこの著作に紹介されるレベルの仕事をなしえている。館林市民は誇りに思ってよい。
 たまには、法輪寺にある瑳磨介のお墓にお参りすると良いね。ご利益間違いなしだ。
(2014年9月12日アップ)
「大名の家計簿」




【参考資料】

館林人物誌「館林人物誌」編集者代表・福田啓作
昭和16年発行。
発行:群馬県邑楽郡館林町役場
見出しに皇紀2600年記念編集と書いてあり、館林町の記念事業として発行したもの。
内容は3部構成。
1) 歴代の館林藩主。赤井照光から秋元礼朝まで
2)主な人物、小寺丹後からはじまり31名。
3)主な人物その2,50名。その中には長澤理玄や長澤ふさ、山田音羽の名も・・・。
近代デジタルライブラリーで検索すれば、パソコンで読めます。便利な世の中に。
もちろん著作権はきれてます。

篠塚 中 表紙

「館林藩に於ける洋学教育とその背景」
篠塚 中(とおる)著
昭和58年発行。
松平記念経済・文化研究所紀要第一号抜刷

「長澤理玄展」(2014年5月16日) 会場で文学博士の篠塚先生(学校法人富士学園理事長)ご本人からいただいた資料。
初対面でしたが、館林城の再建をめざす会を応援してくれてました。感謝です。
長澤理玄展も高く評価していただきました。はげみになりますね。


「埋れ木」
岡谷勝益君事跡
田山実弥登著
明治41年11月発行。
博文館印刷所、発行:南條新六郎

文豪・田山花袋の兄、館林藩士、田山実弥登が 岡谷瑳磨介の息子・南條新六郎に依頼され、調査執筆した。安政の改革の詳細や、瑳磨介の家族のことも詳しく紹介。好著。
館林市立図書館で閲覧できます。
(WEBサイトにアップして欲しい。
国会図書館のようにね。)
表紙を撮影できませんでした。
入手次第アップします。