岡谷荘三郎/前篇(おかのや しょうざぶろう)
1832(天保3年)〜1888年 明治21年9月12日(享年55)
ついに亡くなった年が判明した(2014年7月12日のこと)

万延元年(1860)、
日米修好通商条約批准書交換のため
遣米使節の一員として参加 。
館林藩士初の世界一周を成し遂げた。

岡谷瑳磨介の三男として。天保3年(1832)山形城内で生まれる。諱は勝義。
通称荘三郎。後に 岡谷家の名である兵八郎を名乗る
詳しくは 岡谷瑳磨介の家系図を参照。
秋元家の館林移封により弘化3年(1846年)に 岡谷家も館林へ。荘三郎14歳。
荘三郎は兵学を修めたが、父・瑳磨介の影響もあり洋学に方向を変えた。
江戸に派遣されて、大鳥圭介(英語)箕作秋坪(みつくりしゅうへい)(蘭学)に学ぶ。荘三郎は江戸で蘭学と英語を学び、いずれ館林の造士書院で指導者になるべき人材として期待されていた。
※大鳥圭介は適塾で医学と蘭学を学び、中浜万次郎に英語を学ぶ。戊辰戦争で最後まで戦い、五稜郭で降伏。(館林藩士は戊辰戦争での小山の戦いで大鳥圭介にさんざんな目にあい敗けました)明治になり新政府でも活躍。

岡谷繁実「浮世能夢」の著作で、有名な3人の志のお話し。
※3人とは岡谷繁実/長澤理玄/岡谷荘三郎
嘉永の頃、館林藩内で3人が集まった。
荘三郎曰く「僕は海外に渡り外国の事情を調べて帰国し、我が国のためになることが望みです」万延元年にその夢が叶う。


 
 岡谷荘三郎写真

荘三郎の肖像写真。館林藩士の写真はとても貴重。(1860年撮影。荘三郎29歳)
写真をよく観察する。
左手で持っているのは、パナマ帽のように見える。
ワシントンでの撮影と川島氏はコメント(「写真集館林」で荘三郎の写真を解説)しているが、パナマを鉄道で横断した時に撮影されたものでは?
首都ワシントンは旅の目的地であり、ワシントンでの撮影ならばもっとちゃんとした服装だろう。まず、髪型。ちゃんと髷を結ってないし、武士の魂といわれた大小も差してない。足もとを見ると靴をはいているようだし、上着もかなり汚れている。襟の内側からのぞく下着のようなものはいったいなんなのだろう。
カジュアル過ぎる。どう見ても旅の途中の普段着だね。ワシントンで撮影された他の団員の写真はきれいに髷を結っていて刀をさしている。羽織袴姿で草履を履いている。
撮影地はパナマだと思う。パナマでも一行は大歓迎を受ける。
(田中の分析です。)
〈写真は川島維知編「写真集・館林」国書刊行会発行〉
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写真といえば、使節の護衛として咸臨丸に乗船した福沢諭吉はサンフランシスコでアメリカ人少女(名はアリス)と仲良く写真に収まっている。(有名な写真)。 福沢諭吉写真荘三郎と表情が全く違う。
福沢諭吉は荘三郎の3歳年下。当時26歳。

コラム:歴史の謎。九州、中津藩の下級武士(13石二人扶持)陪臣の身で 福沢諭吉はどうして咸臨丸の一員に選ばれたのか?】
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答えは、本人も語っているが、艦長・木村摂津守へのルートを開拓したのだ。
1)中津藩は蘭学に積極的な藩だった。
2)福沢の父は身分の壁を乗り越えるべく、諭吉の教育を支援。
3)大阪。緒方洪庵の適塾でオランダ語を学ぶ。(三年間)
4)藩命で江戸へ。蘭学修行を継続(鉄砲州の中津藩屋敷の長屋に住む)
5)中津藩邸の近くに(約500メートル)奥医師の桂川家があった。当主は7代目で蘭方の外科だった。 将軍家の奥医師で蘭方はめずらしい。本道は漢方であった時代だ。
6)桂川家には多くの蘭学者が出入りすることになった。
 蘭学サロンだ。 諭吉もその一員に。
7)軍艦奉行・木村は桂川家と近い親戚だった。
  (桂川当主の義弟が木村摂津守)
8)海外の知識を吸収したい諭吉は、桂川家に頼みこみ、
  軍艦奉行へのコネを作る。
9)桂川家からの紹介で、諭吉は身分違いの木村摂津守と会うことができた。
10)摂津守も諭吉の能力を評価。
 晴れて従僕として咸臨丸の一員になれた。
 諭吉の強い意志が、幸運を逃さなかったわけだ。
歴史の教訓だね。何事も努力を惜しまないこと。

(資料「勝海舟と福沢諭吉」安藤優一郎著 
 日経新聞出版社 2011年発行)
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【咸臨丸と勝海舟を持ち上げすぎ!】
イエローカード1枚

荘三郎一行は正式な使節団(77名)。諭吉たち一行は正使一行の護衛(99名)、お供だ。 我々が習った歴史はかなりいい加減だった。咸臨丸が遣米使節の代表として日本人だけで太平洋を横断したと誤解させていた。本当はメインじゃないサブだ。
教科書の咸臨丸のイラスト(波浪に翻弄されるけなげな咸臨丸)が強烈な印象だったが。あれは国威発揚の作られた歴史だったというわけだ。咸臨丸と勝艦長
咸臨丸は使節の護衛船だったので、首都ワシントンまで行かなかった。サンフランシスコを往復しただけ。しかも日本人乗組員は船員も訓練不足。幕府が斡旋してブルック大尉以下10人のアメリカ人にお願いして乗船してもらい操船のアドバイザーに。幕府の老婆心がものの見事にあたった。大嵐に遭遇し艦長の勝は船酔いでダウン。もちろん諭吉もダウンだ。日本人で役に立ったのはジョン万次郎と小野友五郎と濱口興右衛門だけ。(乗組員・斉藤留蔵の証言)勝海舟はお呼びじゃなかった。諭吉も勝の悪口を書いているね。アメリカ人の船員がいなかったら間違いなく沈没か漂流だね。(海舟ファンの私としてはつらい。海舟の名が泣く。海の舟でなく海の藻屑になったかも・・・。)
ブルック大尉の「咸臨丸日記」に情けない日本人の態度が描かれている。
サンフランシスコから日本に戻るときも不安なので、米国人クルースタッフを5人も雇っている。修理の終わった咸臨丸3月18日出発、ハワイ経由で5月5日に浦賀到着。
私たちは勘違いしているが、武士というものに幻想を抱いている。権威主義のあまチャンが結構多かったのだ。お酒にだらしなく、規律もない。(これは、札幌農学校に赴任したあのクラーク博士も記している。農学校の生徒は武家の二男・三男坊が多く、素行の悪い(酒癖がわるい。不真面目。)数人を退学させている。)
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諭吉の写真は咸臨丸が修理中(嵐で痛んだ箇所を米の海軍造船所で修理してもらう、ブルック大尉が斡旋。費用はアメリカが負担した)で乗組員は自由行動が与えられた。リラックスした状態での写真撮影だったのだ。
(写真は慶応義塾福沢研究センターが所蔵)
荘三郎はもちろん、咸臨丸一行とサンフランシスコで合流した。
そこには、勝海舟も木村摂津守も、ジョン万次郎も、福沢諭吉も・・・。
歴史オタクならワクワクするメンツだ w。


【荘三郎の遣米使節大旅行】
万延元年の世界一周はいかに 。

【歴史的意味は小休止。というか他の文献にお任せ。ここでは館林の活性化のために、ホラ話のような、たのしい話。江戸時代に館林の人が世界一周をしたのさ・・・。】
遣米使節航海図▲遣米使節、世界一周ルート図。
(マップ制作:田中茂雄2014.06/24)
  西暦1860年2月9日、アメリカ艦船ポウハタン号で品川を出発。目的地ワシントンへ5月14日到着。ワシントンに25日間滞在した。フィラデルフィア、ボルチモア、ニューヨークと移動した。
ニューヨークでは13日滞在。数回パレードを行うなど大歓迎を受けた。
6月28日 N.Y.出発。大西洋を越えアフリカへ。喜望峰を回りインドネシアへ到着。途中、香港で休む。品川へ上陸したのは11月10日(全て西暦)。246日の旅であった。
※日本人初の世界一週はこれより50年以上早い。人類初の世界一周はマゼランの艦隊で338年早かった。以下のコラムをどうぞ。
津太夫コラム (2014年6月28日アップ)

【遣米使節団・乗船名簿】
 上州館林・谷村左右助勝武(変名を使用)


万延元年(1860年)遣米使節一行77人。(護衛の咸臨丸一行は99人。船員が数多くいたので人数が多い。)
名簿に館林藩士・谷村の名が。谷村とは 岡谷荘三郎の変名だ。外国調役・塚原昌義(36歳)の従僕として参加したのだ。
他に群馬県からは小栗上野介(32歳)の従者として権田村の名主・佐藤藤七(54歳)が参加した。(もちろん小栗忠順の計らいでのこと)佐藤は遣米使節の記録「渡海日記」を残した。医者が二人(宮崎立元34歳、村山伯元淳32歳)参加している。
※上毛新聞社から村上泰賢編『遣米使節 小栗忠順従者の記録』が出版されている。
名簿を見ると最年少は17歳の通訳助手、斧次郎。ニューヨークでアイドル並みに人気が出る。最高齢は甲州巨摩郡藤田村の五味張元さん61歳。勘定方組頭・森田清行配下。人生を賭けて出発したわけだ。乗船名簿

使節団の代表と副代表と監察(お目付)の代表3人の写真をご覧下さい。
この写真は6月2日朝、ホワイトハウス近くののウィタードホテル内の礼拝堂で撮影されたもの。(大統領が使節3名の写真を欲しいとカメラマンを派遣して撮影した)
フォーマルな写真。
遣米使節団代表写真
※歴史秘話01。代表の新見正興(あらみまさおき)の孫が、NHKの人気・朝ドラ「花子とアン」に登場する花子の友人・歌人の柳原白蓮なのだ。白蓮の美貌は遺伝ですね。
白蓮と祖父新見正興
▲白蓮の整った顔は祖父の血を見事に受け継いでいる。(2014年6月28日アップ)
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もう少しきれいな写真を見つけました。汚れをレタッチしてます。
はかまの生地が華やかでおしゃれ。派手な柄だが見事に着こなしている。武士の正装スタイルなのだろう。衣装を運ぶのも大変。
幕府は遣米使節団の費用として6万両を使ったという。衣装も国威発揚だね。
遣米使節3名
▲副使・村垣範正。 正使・新見正興。 監察(目付)小栗忠順(上野介)
※歴史秘話02。
監察の小栗忠順順。(明治近代化の父といわれた) 官軍により群馬県で斬首された。有名ですよね。その首が館林の法輪寺に埋められた。(首実検のために館林城内へ。首実検をした人物は東山道鎮撫総督・岩倉具定)
法輪寺は 荘三郎の岡谷家の墓があるお寺だ。不思議な縁。
首は権田村の有志によって掘り出された、奪還に成功した。有名な話。
ちなみに戊辰戦争での被害者・会津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)が幽閉されたのも館林。
※西郷頼母(1830〜1903)会津藩の上級士族にのみ代々伝わる大東流合気柔術を武田惣角に伝えた。合気道のルーツにつながる人物。息子(養子)西郷四郎にも伝えた。西郷四郎は「姿三四郎」のモデルになった人物。
面白いね。(西郷頼母のエビソードは2016年9月26日追記)

歴史の宝庫だね。(群馬県では・・・。)

【荘三郎、出発にあたり
  藩主・志朝より餞別を賜る】


父であり館林藩江戸家老の瑳磨介は、息子・荘三郎を遣米使節の一員にするために、外国奉行支配取調役・塚原昌義に依頼した・・・、
(これは誤りだった)2014年7月31日に新資料を入手。 遣米使節になった顛末が判明した。それは、-------------------------------------------------
1)荘三郎の父、館林藩江戸家老の瑳磨介は外国奉行支配調役の塚原昌義に日米和親条約締結の諸条件について訪ねたことがある。面識があった。
2)塚原が瑳磨介の西洋事情の見識を高く評価。塚原が瑳磨介本人にアメリカへ行かないかと誘ったのが真相。
3) この申し出に、開明派の瑳磨介は心底喜んだに違いない。しかし藩政改革のまっただ中、重職の身に、半年以上の留守は不可能だった。渡航を断念た。そして息子の荘三郎に随行の申し出をゆずったのだった。 (もちろん藩主の承諾を得て)
歴史のイフ:荘三郎でなくて瑳磨介が館林初の世界一周ホルダーになったかも。
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使節団員枠が77人と決まっていたので全国の藩から応募があったようだ。(海外の進んだ文明を持ち帰り殖産に役立てるという使命感が多くの藩にあったのだ)塚原の従者という立場で、名前も変えて(谷村左右助勝武)随行することができた。
 藩主・志朝も喜び、図書の購入費用として若干の金子と太刀一振りを賜った。
荘三郎は「君父の命に背からざらんことを誓い、不幸旅中空しくならんか、異郷に魁して護国の鬼とならん。」と答えた。(時代とはいえ、迫力満点)
遣米使節ルート図02

荘三郎【サンフランシスコからの手紙】
万延元年/安政7年(1860)1月18日、品川沖に停泊中の米艦ポーハタン号に乗り込み、出港。
途中激しい暴風雨に遭遇しハワイへ寄港することに。
3月9日、ようやくサンフランシスコへ到着した。咸臨丸はハワイに寄らず直行したので2週間前に到着していた。勝海舟一行等と会う。このときに日本へ向かう商船に父・瑳磨介への手紙を託した。以下その内容。
「皇国は東方一大秀傑の地を有しながら内にいたずらに議論を好む輩あり。
慎むべき哉。(これって福沢諭吉のことじゃないのか)帰する処はしょせん大和魂なるものを錬磨し、将来おおいに人心を鼓舞し、兵力を蓄え、天下の方策を整え、今後ますます優秀な士を使わして、深く海外の情実を探り、皇威を外に輝かすに非ずば、何をもって神霊祖宗を慰めたてまつらんや。ただ願うところは、いたずらに外国不頼の軽薄士の書籍に接し、その話講をもって深く外国の情を得たりとし。或いは洋人に媚びて国辱を忘るるがごときは、将来深く深くいましむる処にあり・・・・・」

幕末とはいえ江戸時代。こうした気概を持つ人たちがいたおかげで日本が植民地にならずにすんだわけだ。
(とはいえ、まじめすぎないか、攘夷の嵐が吹き荒れる日本に戻ったときの対処が心配になる。まじめすぎると折れやすい。福沢諭吉の余裕が欲しいね。)
荘三郎一行がサンフランシスコに到着したのが3月9日。同時期の3月3日。桜田門外の変が起こる。日本では開国派のリーダー・井伊直弼(日米修好通商条約締結の推進役)が暗殺されたのだ。一行は知らなかっただたろう。歴史の摩訶不思議なでき事だ。

荘三郎一行の未来に暗雲が・・・・。(前篇終了)
旅はつづく
後編へ

【参考資料】

遣米使節日記「万延元年第一遣米使節日記」
使節団、副使・村垣範正が記した日記をもとに編集された。村垣淡路守が残した日記の原題はズバリ「航海日記」だ。
大正7年5月発行
発行所:日米協会

「遣米使日記」
副使・村垣範正が記した日記を村垣の四男・正道が明治31年に出版。
表紙の画像がないので奥付を掲載。
共に近代デジタルライブラリーで閲覧できる。
村垣「航海日記」館林藩士・谷村こと 岡谷荘三郎の記述がないか調べたが、全く出てこない。というか代表の3人(新見、村垣、小栗)と勘定奉行の森田がほとんど。特に年齢がひとつ違いの森田清行と気があったのか良く登場する。同じ旗本仲間だけが登場。館林藩士など所詮、陪臣(ばいしん)(またもの)だ。ランクが違うのだ。交流はない。じっくり読むと当時の空気も読み取れる。 残念だ。
航海日記付録「遣米使日記」付録の地図。
世界一周航海ルートが克明に記されている。
(マップに着色は田中茂雄)

ポウハタン号絵図「ポウハタン号」
古河歴史博物館蔵。お隣の古河市にポウハタン号の絵が所蔵されている。なにかのご縁だ。お隣の古河藩には鷹見泉石という名家老がいたのはご存知ですよね。
渡辺崋山が描いた肖像画(国宝)のモデルになった人物で有名。開明派であり、諸外国の知識を取り入れることに熱心だったので「ポウハタン号」の絵を入手したのだろうか。
館林から近いので本物を見てみよう。
【古河歴史博物館
9:00~17:00(入館は16:30まで
古河市中央町3-10-56
電話:0280-22-5211


【遣米使節団として
公的に買い上げた書籍一覧】

使節団は日本にとって本当に必要な物だけを厳選して購入。
以後、多くの視察団が海外の進んだ知識を持ち帰ってきた。
1)英語字引  15冊
2)英語文法書 100冊
3)地理字引  15冊
4)地理字引(小サイズ) 25冊
5)地理字引(別サイズ) 25冊
6)地図    50冊
7)窮理書(物理) 80冊
8)貿易方字引   30冊
9)英仏解訳会話書 100冊
10)航海書  100冊
11)航海歴書 100冊
※英語の文法書を100冊。鎖国の影響で蘭語(すでに時代遅れ)を学んでいたものの役に立たない。英語が必要だったのだ。
航海書が100冊というのも納得。咸臨丸の航海術がなんとも未熟だった。 物理の書籍を80冊も購入した幕末の日本人は偉い。将来の技術立国を予見している。>
正使・新身豊前守への
【寄贈書籍物品リスト】


1)議事堂役人附 1冊
2)器械の書   17冊
3)耕作の書   9冊
4)金メダル   1
5)ピストル(箱入り) 1挺
6)ペリーの肖像画(額装) 1枚
7)書目録     1冊
8)メダル形の図  1
9)金メダル(政府より) 1枚
10)銅メダル(大統領より) 9枚

正使以外にも代表団のメンバーには寄贈品があった。


【館林町立図書館が昭和13年、発行した業書にも荘三郎の資料が残っていた】  館林業書表紙
館林郷土史談会編
「館林郷土業書」
発行所 館林町立図書館
発行者 福田啓作
昭和13年5月発行

後藤子之吉氏が「万延元年 岡谷荘三郎の洋行」という題で掲載。
この資料のおかげで、荘三郎の亡くなった年(明治21年)が判明した。

荘三郎はやはり日記を
残していた】

※後藤氏の記述に「今愚生の手元に荘三郎の日記写本を蔵せり、・・・。」(105ページ)
と書かれている。やはり日記はあった。当然だよね。だれでも記録したくなるほどの偉業を経験したのだから。
しかも写真が数十枚とも記されている。
ぜひ、見たいです。
ご存知の方、ご一報ください。
連絡先:館林城の再建をめざす会 田中茂雄まで
よろしくお願い申し上げます。