岡谷荘三郎/後篇(おかのや しょうざぶろう)
1832(天保3年)〜1888年 明治21年9月12日(享年55)



前篇からの続き。
サンフランシスコを離れ、旅の目的地ワシントンへ。

【閏・3月17日桑港発。18日間航海し
パナマへ 。パナマ鉄道に乗る】

閏(うるう)3月4日パナマへ到着。パナマ運河はまだないので、パナマ鉄道(1855年開通)に乗る。(パナマ運河は20世紀になってから開通)
蒸気機関車に乗るのは初めての経験。楽しかったに違いない。荘三郎一行の中に群馬県権田村の名主・佐藤藤七(このとき54歳。スゴイね)がいた。小栗上野介の従者として加わった。記録『渡海日記』を残していて、挿絵もある。
パナマ鉄道の絵をご覧ください。 パナマ鉄道
▲54歳の権田村名主・佐藤藤七。克明な描写力がいいね。感動が線にあらわれていて見る人に伝わる。機関車の先端に日の丸の国旗が掲げられている。誇らしいね。
この客車の中に77人の使節団が乗車していた。館林からは荘三郎が。
荘三郎の瞳になにが映ったのだろうか。記録があるはずだ。残っていれば、ぜひ読んでみたい。
※日章旗が国旗として国外で最初に使用されたのは、この遣米使節団が初めてである。
(歴史トリビア)

【閏3月24日ワシントン海軍造船所に上陸。
27日 米大統領に謁見。批准書を交換する】

閏(うるう)3月24日(西暦1860年5月14日)ワシントン海軍造船所上陸した。
一行は大歓迎を受ける。
ホワイトハウスへ向かう一行のイラストも残っている。
それをみると、代表メンバーは数台の馬車に分乗。各代表の従者がそれぞれの馬車の前後左右に位置し徒歩で行進。先頭の従者は毛槍を掲げている。(日本の伝統的なスタイルを簡素化した行列だった。)館林藩士・谷村( 岡谷荘三郎)は塚原の乗る馬車のサイドを立っていたはず。従者としての役割なのできっとそうだろう。
それでも晴れがましく行進したに違いない。沿道には多く見物客で溢れていた。1860年ワシントン
▲上のイラストで二人の軍人が担いでいる長持ちの中に条約批准の国書が納められている。閏3月28日ワシントン ▲村垣副使の日記より。閏3月28日。大統領謁見当日(批准書交換 )の服装が書いてある。正使・新見、副使・村垣、監察・小栗、勘定役・森田、外国奉行・成瀬の4人が狩衣(かりぎぬ)。次のランクで荘三郎の上司となる外国調役・塚原 と徒目付・日高が素襖(すおう/旗本の礼服)、通訳・立石は麻の上下(かみしも)。
荘三郎も麻の上下(かみしも)だったのでは。日記には下司の衣装は書いてないが、使節団の一員として参加している。ワシントンエピソード


【歴史の勉強】万延元年のアメリカ事情。
なんと1860年は南北戦争の前年!
激動の国内事情だったのだ。

遣米使節団が訪れた当時のアメリカは大いに揺れていた。南北戦争前夜だったのだ。
1860年はアメリカの大統領選挙の年だった。
1860年5月9日と10日、イリノイ州で開催された共和党大会で、リンカーンは州推薦大統領候補に初めて指名された。
このとき遣米使節団はワシントンへ向かう船のなか、フロリダ沖を通過した頃だろうか。 リンカーンは5月18日シカゴで開催された共和党全国大会では共和党大統領候補に選ばれた。
前日(5月17日)遣米使節団はホワイトハウスで大統領と謁見。
盛大なパーティーで迎えられた。
1860年11月6日リンカーンが第16代大統領に就任した。
使節団がニューヨークから日本に旅立った3ヶ月半後のことだ。 僅か半年後、1861年4月、南軍が攻撃開始。南北戦争が始まった。
荘三郎はワシントンやフィラデルフィアやボルチモア、ニューヨークでリンカーンのポスターをみたのだろうか?大統領選挙を知ることができたのだろうか?
1860リンカーン※合衆国議事堂のシンボルである巨大なドームは1855年に着工し1866年に完成。(元は小さなドームだったものを3倍の大きさに拡張)パリにあるアンヴァリッド(ナポレオンのお墓がある有名な建築「廃兵院」)から着想を得て設計された。
まさに荘三郎らはドームの工事を目撃したのだ。以前のドームは木造。拡張工事の構造は鉄製。遣米使節の一行は鉄の重要さを意識したのだ。合衆国議事堂
▲国力の増大に伴い膨張するドーム。分かりやすいねアメリカ人。
ワシントンDC観光旅行で、合衆国議事堂をご覧の際にぜひ思い出してください。150年前の巨大ドーム拡張工事を荘三郎という館林藩士も見ていたことを。
(2014年7月1日アップ)

【ワシントン(25日間滞在 )での視察が
日本を変える原動力に】


合衆国議事堂、スミソニアン博物館、米海軍天文台、海軍造船所などを見学。
欧米の進んだ科学技術に接して、一行の胸中は様々だ。
たとえば、スミソニアン博物館。村垣副使の日記には
「4月14日晴、午後二時よりポルトル案内にてスミスチニアといへる奇品はた究理の館成よし百物館と同しく石造りの高堂なり・・・・(原文まま)」
村垣副使は48歳。人生50年。もう終わってしまった官僚だ。あまり感動してない。
世界各地の様々な標本の陳列のなかにミイラがあった。「鳥獣虫魚とひとしく人骸を並べて置くは言語に絶したり・・・」いかがなものかと文句を述べている。
29歳の若い荘三郎はスミソニアン博物館で何を思ったろうか。
 特筆すべきは海軍造船所の見学で監察(目付)小栗忠順にスイッチが入ったことだ。
海軍造船所は戦艦だけをつくるわけでなく、溶鉱炉を持ち鉄の生産から加工。武器の製造、造船まで行う。しかも動力に蒸気機関を使用した進んだ施設だった。
さすがに村垣副使もワシントン海軍造船所では日記に感動を記している。
「蒸気仕掛けにて種々の細工をするさま目を驚かしたる奇工筆にも言葉にも絶しがたし。・・・大砲の弾丸見るかうちに百の数も出来たり、・・・鋼板を延べるなどまことに奇なり此の機関は我国にも用いなは国益は言わかりなしと思われる・・・」
大絶賛である。
小栗は日本にもどり、横須賀に同様の工場を造る。それが横須賀造船所(横須賀製鉄所)後の横須賀海軍工廠だ。
近代の日本の基盤となった施設だ。
司馬遼太郎をして「明治の父」と言わしめた由縁はそこにある。
ワシントン海軍造船所見学
▲小栗忠順(32歳)働き盛り、好奇心旺盛。進んだ科学技術を見て、いかにして日本で実現できるか考える。しかも帰国後それを実行する。写真の表彰は日本再建プランを考えている顔だ。一方、 村垣副使と仲良しの森田勘定方は打ちのめされた表情だ(お疲れさま)。
村垣の日記によれば、造船所の立派な門をくぐると、軍楽隊の音楽で迎えらた。ブキャナン提督が出迎え施設を案内してくれた。造船所(工場)見学後、椅子が用意してあり一同を並べて、後ろにブキャナン提督らが立ち、写真を撮影したと書いてある。(上記の集合写真) ということはこれ1枚か?ひょっとして荘三郎は造船所見学メンバーでないのかも?不明。それはないだろうね。( 村垣さん、チャンとレポートを書いてちょうだい。)
撮影後、礼砲を8発鳴らしてお開きに。その後一行は、提督の家に招かれて食事会。
村垣は工場の様子を詳しく書き留めている。
「およそ、数百種の機関の細工場ひとところも空きなく皆細工をなし筒(大砲の砲身)の鋳込みまで時刻をはかりて其場に至れば鋳込みの体を見せなとするは深く心を用いし事成べし」(原文まま)やはり、武力の向上に武家の血がさわぐのだろうか。

【ボルチモア( 1 泊)→
フィラデルフィア(6日滞在)→
ニューヨーク(13日滞在)】

4月20日(西暦1860年6月9日)ワシントンDCから汽車で出発。ボルチモアをめざす。
ボルチモアで1泊し翌日4月21日フィラデルフィアへ。
(ルートを分かりやすく紹介したいので、マップを制作。1860年のアメリカ。汽車もフェリーも蒸気船もガス灯もあった。マップ制作田中茂雄)
フィラデルフィア滞在中の4月24日、25日。遣米使節団のもう一つの任務(貨幣の交換比率の是正交渉があった)。
フィラデルフィアの造幣局で小栗忠順が日米金貨の分析実験を要求し不平等な通貨交換の交渉を行う。(金の含有量を精密に調べて、交換比率の是正を要求)日本から金の流出を防ぐためだ。
小栗の理路整然とした交渉に対してアメリカの新聞が高く評価する。
(最初にノーといった日本人=小栗上野介)

【ニューヨーク(13日滞在)】
ニューヨークは旅のグランドフィナーレ、ニューヨーク市民から大歓迎を受ける。舞踏会も複数回主催された。中でも5月7日(西暦6月25日)メトロポリタンホテルで日本使節一行を歓迎する大舞踏会では入場券(一人10ドル)が一万枚も用意されたほどの歓迎。「サムライ」に感心をよせる市民が多かったのだ。150年後の2010年に、ニューヨークで遣米使節団の記念展覧会が催された。
nyパレードNYパレードマップ▲グーグルマップを下図として使用しました。地図上の赤いラインがパレードのコース。船でバッテリーパークに上陸した使節団一行はメトロポリタンホテルへ向かった。ホテルは現在のソーホー地区のそば。ニューヨーク観光でソーホーのギャラリー周辺を散策の際に154年前に館林藩士・岡谷荘三郎が訪れていたことを思い出していただければ幸いです。サムライインNYポスター
▲イラストの衣装は武家の礼服である狩衣(かりぎぬ)、直垂(ひたたれ)。

ニューヨークでは書店での買い物、印刷所の見学、学校訪問、盲学校の訪問、結婚式の見学など、精力的な活動をしている。
トミー斧次郎

旅はつづく

【参考資料】

遣米使節日記「万延元年第一遣米使節日記」
使節団、副使・村垣範正が記した日記をもとに編集された。村垣淡路守が残した日記の原題はズバリ「航海日記」だ。
大正7年5月発行
発行所:日米協会

「遣米使日記」
副使・村垣範正が記した日記を村垣の四男・正道が明治31年に出版。
表紙の画像がないので奥付を掲載。
共に近代デジタルライブラリーで閲覧できる。
村垣「航海日記」館林藩士・谷村こと 岡谷荘三郎の記述がないか調べたが、全く出てこない。というか代表の3人(新見、村垣、小栗)と勘定奉行の森田がほとんど。特に年齢がひとつ違いの森田清行と気があったのか良く登場する。同じ旗本仲間だけが登場。館林藩士など所詮、陪臣(ばいしん)(またもの)だ。ランクが違うのだ。交流はない。じっくり読むと当時の空気も読み取れる。 残念だ。
航海日記付録「遣米使日記」付録の地図。
世界一周航海ルートが克明に記されている。
(マップに着色は田中茂雄)

ポウハタン号絵図「ポウハタン号」
古河歴史博物館蔵。お隣の古河市にポウハタン号の絵が所蔵されている。なにかのご縁だ。お隣の古河藩には鷹見泉石という名家老がいたのはご存知ですよね。
渡辺崋山が描いた肖像画(国宝)のモデルになった人物で有名。開明派であり、諸外国の知識を取り入れることに熱心だったので「ポウハタン号」の絵を入手したのだろうか。
館林から近いので本物を見てみよう。
【古河歴史博物館
9:00~17:00(入館は16:30まで
古河市中央町3-10-56
電話:0280-22-5211


【遣米使節団として
公的に買い上げた書籍一覧】

使節団は日本にとって本当に必要な物だけを厳選して購入。
以後、多くの視察団が海外の進んだ知識を持ち帰ってきた。
1)英語字引  15冊
2)英語文法書 100冊
3)地理字引  15冊
4)地理字引(小サイズ) 25冊
5)地理字引(別サイズ) 25冊
6)地図    50冊
7)窮理書(物理) 80冊
8)貿易方字引   30冊
9)英仏解訳会話書 100冊
10)航海書  100冊
11)航海歴書 100冊
※英語の文法書を100冊。鎖国の影響で蘭語(すでに時代遅れ)を学んでいたものの役に立たない。英語が必要だったのだ。
航海書が100冊というのも納得。咸臨丸の航海術がなんとも未熟だった。 物理の書籍を80冊も購入した幕末の日本人は偉い。将来の技術立国を予見している。>
正使・新身豊前守への
【寄贈書籍物品リスト】


1)議事堂役人附 1冊
2)器械の書   17冊
3)耕作の書   9冊
4)金メダル   1
5)ピストル(箱入り) 1挺
6)ペリーの肖像画(額装) 1枚
7)書目録     1冊
8)メダル形の図  1
9)金メダル(政府より) 1枚
10)銅メダル(大統領より) 9枚

正使以外にも代表団のメンバーには寄贈品があった。


【館林町立図書館が昭和13年、発行した業書にも荘三郎の資料が残っていた】  館林業書表紙
館林郷土史談会編
「館林郷土業書」
発行所 館林町立図書館
発行者 福田啓作
昭和13年5月発行

後藤子之吉氏が「万延元年 岡谷荘三郎の洋行」という題で掲載。
この資料のおかげで、荘三郎の亡くなった年(明治21年)が判明した。

荘三郎はやはり日記を
残していた】

※後藤氏の記述に「今愚生の手元に荘三郎の日記写本を蔵せり、・・・。」(105ページ)
と書かれている。やはり日記はあった。当然だよね。だれでも記録したくなるほどの偉業を経験したのだから。
しかも写真が数十枚とも記されている。
ぜひ、見たいです。
ご存知の方、ご一報ください。
連絡先:館林城の再建をめざす会 田中茂雄まで
よろしくお願い申し上げます。



【新資料】
群馬風土記 群馬風土記掲載