松平武雅(たけまさ)在城年数4年(1724〜1728) 

松平 武雅(まつだいら たけまさ)は、松平清武の養子。上野国館林藩第2代藩主。越智松平家2代。
(詳しくはwikipedia-松平武雅を参照)

 生誕 元禄15年(1702年)
 死没 享保13年(1728年)
 父母 美濃国高須藩主・松平義行の四男。母は側室・上月氏。
 官位  肥後守
 藩  上野国館林藩主

武雅は享保9年(1724年)、越智松平家の松平清武の養子となり、同年家督を相続し館林藩主となる。
享保13年(1728年)に27歳で死去した。法名は顕徳院。子女を残さなかったため養嗣子として常陸府中藩から武元が迎えられ跡を継いだ。同時に奥州棚倉藩に転封を命ぜられた。(棚倉藩というのは降格人事)。かわりに棚倉藩だった太田氏が館林に出世。

武雅は27才でなくなったので、藩主としては4年。

越智松平氏
松平清武を家祖とする松平氏の一系列。親藩の1つ。
清武の父は徳川綱重(家光の三男)お兄さんは家宣(4代将軍)、叔父さんは綱吉。
家光の父は秀忠、母は江(江の母は市、父は長政、そして叔父さんは信長)その父はご存知家康。戦国のヒーローの血がこれでもかというほど流れている。これは名門だ。
清武の父・綱重は群馬の天才・「和算の大家、関孝和」を召し抱え面倒見た人。なにかと群馬繋がりがあるね。
越智松平家は太田氏が二代で館林から移動したあと、再び館林藩主となる。

松平義行(まつだいら よしゆき)
武雅の父は美濃国高須藩初代藩主・松平義行。義行の父は尾張藩主・徳川光友(みつとも)で光友の父は尾張初代藩主徳川義直(よしなお)。義直は家康の九男。結局のところ家康に繋がってしまう。