松平武元(たけちか)在城年数33年(1746-1779)
館林から棚倉へそして再び館林へ。
老中歴38年、吉宗他三代に信任された名執政。

松平 武元(まつだいら たけちか)は、上野国館林藩および陸奥国棚倉藩の藩主。江戸幕府の寺社奉行、老中、老中首座。越智松平家3代。
(詳しくはwikipedia-松平武元を参照)

 生誕 正徳3年(1714年)
 死没 安永8年(1779年)
 父母 父:松平頼明 享保13年(1728年)、館林藩主・松平武雅の養嗣子
 官位 従四位下侍従、右近衛将監。
 藩  上野国館林藩主、陸奥白河藩主、播磨姫路藩主。

享保13年(1728年)、館林藩主・松平武雅の養嗣子となり家督相続、その直後に陸奥棚倉に移封された。稲葉迂齋(稲葉正義、稲葉正誼とも)に師事する。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し吉宗を補佐。
延享3年(1746年)吉宗は武元を家重の補佐役に任命し、棚倉は江戸から遠く何かと不便なので再び上野館林に戻るべしと再び館林の藩主となる。
延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。徳川吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕え、将軍の信任きわめて厚く、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた。
明和6年(1769年)12月1日、多年の勤労を賞し7000石加増、館林藩は6万1000石になった。
安永8年(1779年)7月25日死去。享年67。谷中善性寺に埋葬された。
武元藩主時代は領民からも尊敬されていた。

武元死後は、四男の武寛が家督を継いだ(安永8年8月)

※常陸府中藩主・松平頼明
松平 頼明(よりあき)1691年- 1733年は、常陸府中藩の第3代藩主。松平頼福(徳川頼房の八男・松平頼泰の子)の長男。徳川頼房(水戸徳川家初代藩主)は家康の11男。