6代将軍弟・松平清武(きよたけ)在城年数18年(1707〜1724)

松平 清武第6代将軍徳川家宣の弟。第3代将軍徳川家光の孫で第4代将軍徳川家綱、第5代将軍徳川綱吉の甥に当たる。越智松平家初代。館林城を再築した。
(詳しくはwikipedia-松平清武を参照)

 生誕 寛文3年(1663年)
 死没 享保9年(1724年)
 父母 父:徳川綱重、母:長昌院
 義父 越智喜清
 兄  徳川家宣(第6代将軍)
 藩  上野国館林藩主

 甲府藩主・徳川綱重の次男として生まれる。はじめ、家臣の越智喜清の家督を継いでいたが、宝永6年(1709年)に兄家宣が将軍に就任すると、寄合衆に任じられた。宝永4年(1707年)1月11日、2万4000石の大名として館林藩主となる。その後、松平姓を下賜され(越智松平家)、宝永6年(1709年)にも加増を受けた。正徳2年(1712年)には兄家宣の死去による遺言で加増を受け、最終的には5万4000石の大名となった。そして、館林城の築城などに務める。
 藩財政が困窮したため、その再建を目指して重税を強いた。このため、領民の不満が爆発して、百姓一揆と江戸藩邸への強訴が起こる(館林騒動)。これに対して、清武は百姓側の指導者を死罪に処したが、年貢減免を認めざるを得なくなった。享保9年(1724年)9月16日、死去。享年62(満60歳没)。子には松平清方がいたが早世していたため、尾張徳川家の支藩の高須藩から養嗣子として迎えていた松平武雅が跡を継いだ。清武の死により、家光の男系は完全に断絶した。(清武の実子・清方は28歳で亡くなってしまったので)

【第8代将軍の可能性があった清武】
第7代将軍徳川家継が危篤状態に陥った時、新井白石や天英院は第8代将軍の候補として清武を推したという。清武が家継の叔父であり、血統的に最も近かったのが理由である。しかし清武は将軍にはふさわしくないとされる理由が主に2つあった。家臣の越智喜清に育てられてその家督を継いでおり、また松平の苗字を許されて藩主になったのが宝永4年(1707年)44歳の時であり、経歴上問題があった。 すでに54歳と高齢であった。また、清武自身にも将軍職に対する野心は特になかったといわれる。これらの理由から天英院は清武を将軍にすることを諦め、紀州藩主徳川吉宗を推し、吉宗が第8代将軍に就任した。

【館林城を再築した清武。しかし築城の道のりは遠かった】
廃城後24年たち宝永4年(1707年)清武は館林を拝領。とり壊された城の再建が行われた。
清武は廃城前の綱吉時代の城を目指して築城を開始したが、財政難も伴い、門や櫓などの建築はなかなか進まなかった。大手門が完成したのは16年後(享保8年、清武が亡くなる前年)のこと。しかも本丸の二重櫓が完成したのが91年後(寛政11年)のことだった。
越智松平家による築城の様子は詳細な記録が残っている。
それは、「甲府支族松平家記録」(京都大学法学部所蔵)と「館林実記」(館林市立図書館蔵)。
以下にその内容をご紹介。

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●1708年4月(宝永5年)幕府へ城再建のために資料として古城図を借用。工事見積もり3万1千両。
●1708年6月(宝永5年)幕府からの拝借金は5千両。
(幕府もお金がなかったのだ、清武は将軍の弟なのに、満額回答は得られず6分の1にも満たない。幕府もお金がなくて、ない袖は振れないのだ。まあ、綱吉がお金を使いすぎたからなのだが、しかし、それも内需の拡大に繋がっていて、元禄文化を支えたのだから仕方ないね。)
●1708年8月 築城の総奉行に尾関平大夫・松倉総八郎を任命。設計変更して見積もり費用を5千5百両とする。
(いつの時代も同じような仕事の進め方だ・・・苦労するのはいつも現場だ。)
●1708年8月19日 領内へ、かつての城石を探索する御触書を出す。
(すごいリアルな記録。綱吉時代の石垣を持って行ってしまった人がいたのだ。館林は平野なので石がない。石材は貴重品なのだ。)
●1708年10月2日 本丸において築城の地鎮祭を行う。
(地鎮祭が目に浮かぶようだ、神主は尾曳神社の神官だろうなきっと。)
●1709年4月26日 造成中に本丸からかつての堀跡が現れ、絵図を直して差し出す(8月25日、設計変更の許可)。
●1709年10月3日 造成中に三の丸からかつての堀跡が現れ、絵図を直して差し出す(10月15日、設計変更の許可)。
●1709年12月18日 造営分が八分どおり完成。
注:城の造営で設計変更があれば必ず幕府に届け出をだして許可を得ないといけない。勝手に変更するととんでもないことになる。あの福島正則も台風で被害にあった広島城の石垣を修築して(届けは出したのだが受理されずに修築)改易。長野の高井郡、小布施へ左遷させられた。51万5千石から4万5千石へ。おそろしや。
●1711年2月築城再開。
●1711年4月 本丸・八幡廓・南廓・二の丸・三の丸の土塁と堀が完成。三の丸の千貫門と土橋が完成。
●1719年(亨保4年)9月 城廓造営を再開。 12月南廓・二の丸・三の丸の城壁が完成。
●1720年(亨保5年)1月 城内の屋敷や門などの普請を開始。 4月 二の丸に藩主屋敷が完成。
●1721年(亨保6年)3月 清武、初めて館林城内へ入る。館林藩主となってから14年後のこと。
以下、城の造営と修理が延々続く。
たとえば本丸の二重櫓と大手渡門が完成するのは寛政11年(1799年)9月になってから。なんと清武の4代後の松平斉厚のとき。城造って大変だった。