太田資俊(すけとし)在城年数6年(1740〜1746) 
在城短い太田氏であったがその子孫が秋元氏と繋がる。
 

太田 資俊(おおた すけとし)資晴の長男。元文5年(1740年)父・資晴が亡くなり、その遺領を継ぎ館林城主となる。6年後、遠州掛川藩へ移封。江戸幕府の寺社奉行。掛川藩太田家5代。
延亨3年9月、掛川に移封され、交替として、再び、松平武元が棚倉から戻ってきた。
(詳しくはwikipedia-太田資俊を参照)

 生誕 享保5年(1720年)
 死没 宝暦13年(1764年)44才
 父母 父:太田資晴、母:戸田氏定の娘
 官位 従五位下、摂津守
 藩  上野国館林藩主、遠州掛川藩主。

【太田資俊、幕府より城の造作料として3000両を授けられる】
資俊の父資晴が大阪城代になり館林は6年間あいだ、城番が管理することになったその数6人。それでは城は荒廃する。由緒正しい城も荒れたのだろう、それで3000両を幕府が予算をつけたわけだが、幕府だってお金がなかった。それでも予算をつけたのだから、城の状態がかなり悪かったのだろう。

【太田資俊から5代目の太田資始のこどもが秋元家の養子となり
最後の館林藩主・秋元礼朝となる】

太田掛川藩も不思議な縁で再び館林とかかわることになった。