榊原氏館林藩2代藩主・榊原康勝(やすかつ)在城年数9年(1606〜1615)  

榊原家2代当主。榊原康政の3男。大須賀忠政、榊原忠長の弟。上野館林2代藩主。
(詳しくはwikipedia-榊原康勝を参照)

 生誕 天正18年(1590年)
 死没 元和3年(1615年)
 正室 加藤清正の娘本浄院
 官位 従五位下
 藩  上野国館林2代藩主

康勝は 3男であったが、慶長11年(1606年)には父の病死により、館林藩10万石の遺領を継いだ。長兄の忠政は外祖父・大須賀康高の養子として大須賀家へ出されており、次兄の忠長は早世していたためである。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣・冬の陣にも徳川方として参戦。直後病没(武闘派の榊原家らしく武功をあげたが戦場で痔が悪化、馬の鞍が血で真っ赤に染まったという。)
法名「心光院殿長誉了英大禅定門」。墓所は館林市の善導寺。

なお康勝には庶子・平十郎(勝政)がいた。ところが、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門の3名は、幼君では武功を立て難たく、立身を望めないと策謀して、幕府・家康からの質問に対し康勝に嗣子なしと回答した。家康は次に、康勝の兄で大須賀家に養子に出ていた大須賀忠政の子の大須賀忠次(康勝からは甥に当たる)に対し、榊原の名跡継承の意志を問うた。忠次側より榊原の名跡を継ぎたいと回答があったため、忠次が榊原氏に復帰し、相続をすることになった。しかし後に、三家老の策謀は露見し、それぞれ流刑に処された。
なお、平十郎勝政は後に幕府より1000石を与えられ、その子勝直から旗本榊原氏が始まる。勝直の子の政邦が後に榊原本家を継いだ。(wikより転載)