歴史・資料
【館林市史】
【藩主一覧】
- 榊原康政 1590-1606
- 榊原康勝 1606-1615
- 榊原忠次 1615-1643
- 松平乗寿 1644-1654
- 松平乗久 1654-1661
- 徳川綱吉 1661-1680
- 徳川徳松 1680-1683
- 松平清武 1707-1724
- 松平武雅 1724-1728
- 松平武元 1728
- 太田資晴 1728-1734
- 太田資俊 1740-1746
- 松平武元 1746-1779
- 松平武寛 1779-1784
- 松平斉厚 1784-1836
- 井上正春 1836-1845
- 秋元志朝 1845-1864
- 秋元礼朝 1864-1871
天領(城番)
天領(城番)
【館林藩士由縁人物伝】
初代藩主・榊原 康政(さかきばら やすまさ)在城年数16年(1590〜1606 )
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。上野国館林藩(10万石)の初代藩主。徳川氏の家臣。
徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人)、徳川十六神将、徳川三傑に数えられ、家康覇業の功臣。
(詳しくはwikipedia-榊原康政を参照)
死没 慶長11年5月14日(1606年6月19日)
改名 於亀(幼名。亀丸とも)→康政
別名 通称:小平太
戒名 養林院殿前大守職上誉見向大禅定門
墓所 善導寺(群馬県館林市楠町)
徳川家康の家臣で武と知略を兼ね備えた武将。
家康の小姓となり、以後数々の戦で活躍。
三河一向一揆の平定をはじめとして、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど数々の戦いで戦功を立てた。
天正10年(1582)の本能寺の変発生後、家康の伊賀越えにも同行している。
秀吉の甥・秀次を小牧・長久手の戦いで粉砕。
(この戦いでは、私のご先祖様・田中伝左衛門も秀次方の田中吉政隊として参戦、榊原隊の待ち伏せ合い撃破された。姉川の戦い(野村合戦)でも敵として戦ったらしい。)
また、秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文でも有名。
天正18年(1590)、小田原の役では徳川軍の先手を努めた。この年徳川家康の江戸入り。
榊原康政は館林城主となり、10万石を領する。
家康家臣の中で12万石箕輪(後の高崎)の井伊直政
に次いで2番目の優遇。他に10万石は大多喜(千葉)の猛将・本多忠勝と同じ、次は鳥居元忠が4万石矢作藩、友人の大須賀忠政は3万石・久留里藩。家康は吝嗇で有名なのだ。)
1595年 - 榊原康政が利根川、渡良瀬川の両川に計54キロに及ぶ堤防を築く大工事を行う。
これにより河川の氾濫が大幅に低下した。
1597年 - 館林城城下町に南北通り(日光脇往還)が完成。
その後、成島、当郷、小桑原、谷越、足次の5村の農民を新設の城下町に移住させ町民とする(新町人は地税免除)。
館林城を中心に城下町、寺社を配置しその周囲を塀で囲み5つの門(江戸口門、佐野口門、小泉口門、太田口門、加法師口門)を設ける。
館林城を江戸の防戦砦として整備した。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦。
榊原康政は徳川秀忠軍に軍監として従軍。戦いに間に合わなかった(上田合戦のため)秀忠に家康は会おうともしなかったが、
康政は身をもって家康に侘び父子の仲直りが実現した。
関ヶ原の合戦後、老中となる。
1605年 - 榊原康政の愛妾お辻が他の側室の妬みに耐えかねて、城沼に身を投げて自殺。 これを知った村の人々がお辻の死を哀れみ生前に愛したツツジの木を1本、城沼の南岸、 龍灯の松のかたわらに植え、その霊を慰めた。(花山の起原)
慶長11年(1606年)5月14日、館林城内で死去し善導寺に葬られる。享年59歳。遺領は三男の康勝が継ぐ。
榊原家・家紋「源氏車」
(清和源氏足利氏流仁木氏族)
重要文化財 絹本着色
東京国立博物館蔵
萌葱地雲文の具足下着に、前胴に這龍、草摺に立波文をあらわした素懸威の具足を着て、
三鈷剣の前立の筋兜をかぶって座した姿である。
榊原康政具足
東京国立博物館蔵
三鈷剣の前立の筋兜、上図と同じ兜。「源氏車」の家紋も確認できる。