ギャラリー/館林城・城下
城下を南北に縦断する主要街道・「日光脇往還」の出入り口。南の出入り口がこの江戸口で、北が佐野口。
綱吉時代の絵図によれば壮麗な櫓門であり。枡形の形態で堀と石垣を備えた堅固な門であることがわかる。館林城下で一番壮麗な門。門の正面に警護のための番所がある。警備をする門番は木戸守ともいい、昼は5人体勢、夜間のみ交代で警備した。
徳川家康の遺骸はここを通って日光東照宮へ埋葬された。それは元和3年(1617年)家康が亡くなった翌年のこと。
遺骸を納めた棺は江戸口から城下に入り、佐野口から日光へむかった。いかに館林が徳川幕府にとって重要だったのかわかる。
そのとき家康の棺を迎えたのが、館林藩主・榊原忠次(ただつぐ・榊原三代目)。大行列が館林を通る際に大きな川という障害があった。利根川と渡良瀬川ををどのように通したらよいか悩んだ。(橋をかけてないので)そこで、忠次は多数の舟を並べて仮設の橋をつくらせ、忠次の先導のもと無事行列を迎えることができたという。
他に老中・水野忠邦(天保の改革)や徳川斉昭(徳川慶喜の父)などの有名人も日光社参の際にここを通っている。
【資料】東照宮御鎮座之記 資料によれば、家康の亡骸は前日、行田(忍)を出発し、利根川を渡り、館林城下へ。そして、渡良瀬川を渡り、佐野へ。一行は佐野で宿泊。館林は通過しただけみたい。(康政が生存していたら、間違いなく館林で一泊したに違いない)
2012年11月2日読売新聞より転載(2012年11月加筆)
絵図面:館林城下町図(延宝2年徳川綱吉時代)青山守治氏蔵〈館林市指定重要文化財〉より
写真は2012年3月18日撮影。都市計画により道路が拡張されている。元の幅は車道の巾。このエリアは南小学校(現二小)のエリアであり、同級生の住まいもわかる。
江戸口御門から西にのびる堀
地形的にはっきりと堀の場所がわかる。土塁の場所は2〜3mほど高い。子どもの頃よく通った道。どうして石垣が多いのか不明だったが今回の調査で良く理解できた。南小学校の同級生で、バラ好きのK君の家がまさに堀と土塁の上に建つ家でした。(クランク状に曲がった場所)K君、小学生の時は、鳥類博士だったが・・・今は大学の先生。
江戸口のすぐ上の道路は明治になり東武鉄道の駅と同時にできた新しい道。江戸時代の絵図にはもちろん描かれてない。
[江戸口から東西にのびる堀]
西側の石垣は50年前は銃砲店だった店の裏。東は初引稲荷神社の石垣。ともに東日本大震災のあとの撮影なのだが、どこも破損してない。とくに神社の石の柵は何とも不安定な形だが、まったく無傷であった。昔の職人のたしかな仕事がわかって頼もしいね。
石の積み方は「間知石積」(大きさの揃った四角錐の石を谷積みする。)谷積は明治以降になって積み直された石垣に多くみられる。江戸時代の絵図によれば堀の内側(城下側)は土塁となっていて、門の周囲のみ石積みになっている。写真の石垣は江戸口の周囲の石垣を再利用したのかもしれない。明治になり関所のような門は交通の障害となったので撤去された。門の周囲の石垣は石材として売られてしまったのだ。
江戸口御門から西にのびる堀。
(ごめんなさい。この写真の堀の跡は間違いであることが判明しました。明治の初めの地図を調べた結果。道路は道路のままであり石垣は明治になって堀を埋めた場所に創られた。後日詳しい図を制作して紹介します。2012年9月11日)
櫓門の参考資料;江戸城・田安門
武道館の入り口で有名な九段の田安門。これが櫓門だ。これのちょい縮小版が江戸口の櫓門と考えられる。ただし、石垣はこんな立派な石材ではなかったはず。 門の構造は絵図と比較してもほぼ同じ。こんな壮麗な門が谷越の入り口にあったなんて夢みたい。