ギャラリー/館林城・城下
寛文元年(1661年)綱吉が館林城主(25万石)となった。寛文4年幕府より城修築のため金2万両がつかわされ、城の大改修をおこなった。城沼に面した部分が石垣になり、櫓も増設、本丸には三重の櫓も完成。
館林城がもっとも輝いた時代であった。
綱吉時代の絵図面によれば、
【本丸】60間×37間の長方形の敷地。
北西隅に三重櫓(7間×8間)と水門、北東隅(尾曳神社方向)に二重櫓(5間×6間)、
入り口は左折れの枡形、枡形には櫓門(2間×4間)、
【御厩曲輪】本丸の南に位置し、城沼と接する。八幡郭とは地続き、本丸とは本城門とでつながる。
南西隅に二重櫓(6間×7間)、南東隅(つつじ町方向)に二重櫓(5間×6間)。
入り口に瓦御門(明6間)と廊下橋(屋根がついた橋)(長さ8間)。
蔵(干餅蔵)・厩(うまや)・長屋がある。
絵図面:館林御城図(徳川綱吉時代) 国立国会図書館蔵より
【綱吉時代・館林城本丸・想像図】現・館林市立女子高校の南から見た本丸。
三重櫓は讃岐の高松城「艮櫓(うしとらやぐら)旧太鼓櫓跡・重要文化財指定」を利用。高松城の櫓は5間四方なので、館林城の三重櫓(7間、8間)よりふたまわり小さい。上図の三重櫓の二回り大きい姿をイメージしてもらえれば、それはまさに天守と呼ぶのにふさわしい櫓だった。館林城に天守はあったのだ。
廊下橋は復元された福井城の廊下橋を使用しました。福井城は二代将軍_秀忠の兄の秀康の城なので、同じ徳川一門。橋の長さも8間なので規模も同じ。絵図面ともよく似ている。櫓門は南廓と本丸の土塁上につながっている。制作にあたっては他に江戸城の櫓など多くの城を参考にコラージュして仕上げた。いろいろと変形させたり色を変えたりしてますが、将軍・綱吉に免じてお許しを。画像総制作時間3ヶ月。(なので、画像の無題使用を禁じます。)
本丸跡に残る石垣と井戸。本当にこれしか残ってない。なにしろ城の敷地は秋元家が明治40年(1907年)に上毛モスリンに売却してしまった。 工場敷地となったので、堀も埋めてしまい、悲しいくらいに真っ平らな土地になってしまった。 ただ、幸いなことに、その後、館林市が上毛モスリンに後継会社・神戸生絲から敷地を買いもどしたことだ。 市が買い取らずどこかの不動産屋さんが買っていたら目も当てられない光景になっていただろう。 とにかく、土地がパブリックなので、いくらでも復活の可能性がある。
2013年4月21日追記:現在残されている石垣と土居は上毛モスリン時代に工場建設のため改造されていて、秋元時代の城郭がそのまま残っているわけではありません。土留めの石垣も、井戸も上毛モスリンが明治41年〜43年に工場建設をしたさいに改造・改築したもの。(石の積み方が明治以降の谷積み。それに石も小さいし、迫力ない。ホームページをご覧になったS氏からのご指摘で修正いたします。)しかし、紛らわしいねよね。これからの修復整備の対象にしたいです。
南郭(御厩曲輪)のあった場所は草に覆われた原っぱになっていた。南廓と本丸を隔てる堀と土塁跡。
本丸土塁の北側(本丸御殿)の土塁と石垣。
平成5年(1993年)神戸生絲の工場解体に先立って行われた調査により出土した遺構。
この写真はこども科学館南に移設・復元された本丸1号石組み遺構。(2011年9月撮影)