ギャラリー/館林城・城下
城郭中心部は邑楽館林台地から延びる舌状台地の突端にある。その先にある城沼は天然の要害。
城下町を含めた全体の縄張りは、河川や湿地に囲まれるという防御に適した立地条件であったので、榊原康政は尾曳城を本格的に改修し総構えの城廓を築いたのだろう。
近代的な測量による最初の地図は明治17年のものだ、フランスの影響をうけた陸軍の測量隊が制作した地図(フランス式彩色地図)色分けされた優雅な地図だ。現代のグーグルマップと縮尺を同じにして比べてみる。
明治(幕末も同じだろう)17年と130年後の現代と比較して面積は約半分になってしまった。昭和30年代はまだまだ、明治の地図と似た状況だったが昭和40年代以降、開発が進み城沼の様子は変わってきた。
特に市による開発が大きい。市民プールや体育館、陸上競技場などや公園などパブリックな施設によって沼は埋められた。
(私たちは、その恩恵を多くうけているのだが、市民体育館やテニスコート、プールの場所はかつて城沼だったことを記憶にとどめて欲しい)
現・つつじ町の開発(旧・三軒家、岬のように城沼に突き出た地区)は私が中学3年〜高校にかけて開発が始まり、三軒家の高台を削り、その土で、周囲の田んぼを埋めてしまった。そこにあったかつての篠崎出城は跡形もなく消滅した。秋元別邸から花山をのぞむ風景が大好きだったので残念。(ノスタルジックな思い出としては、赤い木造の太鼓橋が架かっていた当時がとても懐かしい。誰か当時の写真を持っていませんか?)
地図(上)明治17年(1885年)に測量された「第一軍管地方二万分の一迅測図原図(国土地理院蔵) (下):館林、グーグルマップより(c)google
グーグルマップの航空写真(なぜか、館林地区は低解像度の写真なので高解像度の写真を切に望む)は明治の地図と比較して城沼の変化がわかりやすい。
「城沼」江戸時代の城沼と現在の城沼。同じ写真で比較。江戸時代は沼に浮かぶ城。現在は川のような城沼。かなり埋め立てたのがわかる。(2012年4月15日制作)
「城沼パノラマ/尾曳神社から東南をのぞむ」2012年3月撮影
城沼の周囲に遊歩道が整備されているのでより沼に親しめるようになった。昔は湿地帯(北側は深い田んぼと蓮の栽培)でとても沼には近づけなかった。南側の花山サイドは昔から市民に親しまれてた。私が最初にフナ釣りに挑戦したのも城沼だった。
2011年9月撮影。城沼から南廓をのぞむ(左)。左の写真は城沼から尾曳神社(尾曳廓)をのぞむ。
右に南郭、左は館林のスポーツ施設(体育館、テニスコートが見える)。スポーツ施設の場所はかつて沼だった。
1960年代のこの付近は鶴生田川(生活排水たれ流しのどぶ川だった。上流にある食肉センターの屠殺場から流れ出る動物の血で赤く染まった鶴生田川の記憶が忘れられない)の汚水が流れ込む、ものすごく汚れていて最悪だった。それを思うと、よくぞここまで回復したものだ。それでももっと昔は城沼で泳げたらしいので、まだまだ改善の余地ありなのだが。
【城沼古地図】関口邦男氏蔵 部分。(出典:館林市史 特別編第2巻 368P)
明治26年(1893年)作成の城沼の土地利用図。沼の周囲や、館林城郭(真ん中の出っ張りが城郭)の周囲の湿地(蘆の自生地)にも地番がついて管理されている。
こうした管理なんて、子どものころは想像もできなかった。土地の権利は昔から厳格だったのだ、一所懸命だな、利害関係の調整に武家が台頭してきたのもわかる。こんなに細かく地番が区切られていたとは・・・。のどかな沼の景色が違って見える。
面積は半分になっても、豊かな水に恵まれた城沼。東方向をのぞむ。左側は郷谷、右は花山。(2011年9月撮影)