ギャラリー/館林城・城下
小泉口は城下町総構えの南西角に位置し(現在の館林駅・西口の付近)、小泉方面への城下の出入り口となっていた。東武鉄道により城下町から分断された状態になった。 現在、駅西口は再開発中であり、新しい道路が開通し景観を大きく変えている。今、調べておかないとかつての小泉口がわからなくなってしまう。
どうして駅の西側は発展してないのか・・・?こどもの頃の不思議に思っていた。駅から近く、利便性も高い。でも人があまり住んでない。なぞであったが歴史をしらべると、謎が解ける。西側が発展しなかったのでなく、駅が館林の西のはずれに設置されたからに過ぎなかった。(ぐるっと堀で囲まれた総構えの町の南西角・小泉口のそばに駅が作られたためだ。)もともと総構えの外には人家がなかったのだ。
明治40年(1907年)8月に東武鉄道(東京→足利)の館林駅が完成した。善導寺の境内に駅舎を選定,城郭の西南部分を切り崩し、小泉往還の出入り口である小泉口を撤去した。さらに駅舎から日光脇往還まで新たな道(駅前の道)が作られ、停車場通りと呼ばれた。
絵図面:館林城下町図(延宝2年徳川綱吉時代)青山守治氏蔵〈館林市指定重要文化財〉より
25万石館林藩の城下町の出入り口は、藩の格式を感じさせる堅固に作られた城門を持っていた。堀、土塁、石垣、漆喰で塗られた土塀も描かれている。小泉御門(棟門)をくぐって城下へ入ると、門を警備している門番の小屋が目の前にある。その南側に、大きな門番屋敷が描かれている。門から北へ向かうと目車町へ。道幅は5間3尺と書いてある。
絵図面:館林城下町図(秋元氏時代)嘉永元年、館林市立資料館蔵 より
上図の綱吉時代から200年後の小泉口。みすぼらしい感じの柵と門(柵門)が描かれている。これって予算がなかったのでなくて、戦国の世のような侵略者がいなくなって、平和な世の中になったということ。敵の侵入を防ぐ目的などなくて、形式的な門になってしまった。ただし門の脇に木戸守の屋敷ができている。土塁や堀の構造は変わらない。
木戸守の上(北側に)庄田文七の屋敷が記されているが、この庄田ってあの正田さんのことかな・・・?正田文右衛門さんは有名だが文七の文と関係ありそう。この件は宿題としよう。
[こうして探した、小泉口の場所]
江戸時代の絵図面だけを見ていても場所は特定できない。何度か調査をしてわかったことだが、事前調査が大切ということ。古地図を頼りに現地へ出向いても得られるものは少ない。事前調査にパソコンの画像ソフト(私はフォトショップを使用している)がこのうえなく便利。調べたい場所の絵図面をスキャンし、現在の地図に重ねることは簡単にできる。こうした方法で上記の2枚の画像は制作した。左の図は明治9年発行の邑楽郡館林町絵図(館林市史特別編第二巻、354頁)の小泉口部分のスキャン画像。右はグーグルマップに明治9年の図を重ねたもの。(感動的にピッタリと重なる)これがあれば、現地で迷うことがない。小泉口はビンゴ。
しかし明治9年の絵図は実に正確。それには理由がある。地租改正の際に制作されたのでお金がからむからなのだ。実にシビア。おかげでとても助かりました。感謝。(地図は館林市税務課蔵)この地図は館林の重要文化財に指定したいと思う。
記念碑があるだけ、ありがたい。加法師口調査では石碑もみつからなかった。石碑の近くに絵図面入りのサイン(看板)を設置すべき。看板の内容は「館林城の再建をめざす会」で提案します。
木戸守の場所から南東をむいて撮影。小泉口の構造をわかりやすく描いてみました。再開発工事中なので土塁の断面を確認できた。ラッキー! この断面は榊原康政が館林を総構えの城郭都市に造成した時からのものだろう(想像)。それは、400年以上も昔のこと。場所の確認用に図面を配置しておきました。取材時(2012年8月)リニューアルオープン前だったので中に入れなかったが、日清製粉の受付の方に許可をもらい、総構えの土塁と堀を撮影。この堀の大きさを確認するのが、今回の取材のメインだったので、堀と土塁の保存の良さを確認できて感激。さすが館林がルーツの日清製粉(明治33年設立の館林製粉(株)を発祥とする会社)だ。よくぞ保存してくれた。康政・綱吉にかわって礼を申す。(勝手なこと書いてすみません)この堀の石垣の組み方は綱吉時代のものではない。(間知石による谷積みの石垣は明治以降の工法といわれている。)石が若干不揃いなので、綱吉時代の石を再利用した可能はあり。この堀が館林の城下町をぐるっと囲っていたのだ。それは見事な景観だっただろう。それのほんの一部だが、こうして
大切に保存していただいて感謝。ついでにお願いですが(こんなこと書くのは申し訳ないのですが)堀の水をもっときれいにして欲しい。ゴミがたくさん浮いていて悲しい。なんなら「館林城の再建をめざす会」でボランティアのお掃除隊を組織しようかな。
堀の後ろは土塁が残されていてその奥に日清製粉・記念館が見える。記念館は土塁の上に(明治40年)建てられた。
堀跡は巾5メートル、深さ2メートル、長さ12メートル。土塁の高さは約2メートル。
堀のそばに設置された説明看板。絵図入りなのでわかりやすい。