ギャラリー/館林城・城下
【綱吉時代】
本丸と南郭の西側にある。三の丸側に二郭門があり、門の南側に張り出し部がある。南西隅に二重櫓(5間×6間)がそびえ、城沼に面する南側は石垣と土塁が巡らされ、土塁には瓦塀が建てられていた。城内の屋敷は「金田遠江守」の記載があり、館林城代を努めた金田正勝(綱吉の側近で知行髙3000石)の屋敷があった。
【秋元時代】
本丸と南廓の西に位置し、南、北、西の三方を土塁で囲む。三の丸側に二郭門があり、内側に蔀(しとみ)土居が設けられている。(三の丸の土橋門と同じ構造)
坪数は4630坪余(約1万5280平米)、土塁の高さ2間、長さ304間(約547メートル)でその上に高さ6尺の瓦塀が建つ。秋元時代には藩邸が置かれた。藩邸の間取り図も残っている。
絵図面(上):館林御城図・部分(徳川綱吉時代) 国立国会図書館蔵より。絵図面(下):館林御内全図・部分(秋元時代) 市史編纂センター蔵(斉藤家旧蔵)より
平成5年の空撮・写真をみると館林城の縄張りと現在の関係がよくわかる。二郭と南郭の南に整備された公園は、その昔は湿地帯で明治以降新田開発された田もあったが多くは水草や蘆の生い茂る湿地だった。1974年の文化会館完成(三の丸跡)と1981年の市庁舎完成で大きく変わり始めた。1991年に子ども科学館が完成(本丸跡)。そして1993年平成5年に神戸生絲を解体。城郭周囲の堀や湿地帯を埋めて駐車場(何面駐車場)や公園整備が一気に進む。城沼の対岸のスポーツ施設と一体となった開発が完成した。
現在、開発された公園の樹木が生い茂っており、城郭の縄張りが判然としない状況になっている。私が子どもの頃は城郭が明確に認識できたのだが・・・・。開発も大切だが同時に価値ある歴史を後世に残すことも大切。
例えば、稲荷郭の取り囲んでいた堀の存在を意識できる世代が確実に減っている。50代以降の人間がぎりぎりだろう。私は1951年生まれなので、かつての堀を覚えている。
昭和56年(1981年)二の丸跡(神戸生絲の用地だった)に市庁舎を建設。続いて平成5年(1993年)残りの神戸生絲の用地(二の丸・南郭)を市が買い取る。工場を解体し市役所東広場となる。明治41年秋元家が上毛モスリンへ城を売却してから85年。ようやく城跡へ自由に入れるようになった。この広場は館林の将来の財産である。夢を描ける場所なので大切に残して欲しい。
二の丸南端から本丸をのぞむ。(2012年6月24日撮影)