ギャラリー/館林城・城下
地元では尾曳さまと呼ばれ親しまれている。また、城造り伝説でも有名。
大袋城(城沼の対岸・花山の東側にあった)城主赤井照光が、こどもたちに捕らえられた狐児を救った。その夜更け狐の化身があらわれて、子狐が助けられた礼を述べ、館林が要害堅固の地と説き移転を奨めて姿を消した。その年の七夕の夜老狐があらわれ、尾を曳いて城郭の縄張り(設計図)を先導して夜が明けた。別れに際し「築城完成の暁は永く城の守護神に仕えよう。私は稲荷の神使新左衛門である。」といい終わるや姿を没した。照光はこれによって築城し、その名も尾曳城と号し、城中に稲荷郭を設け、社殿を造営した。現存する初曳稲荷は尾の曳き初め、夜明稲荷(旧裏宿の土塁の側にある、5号道路炭たか炭の近く)は曳き終わりの場と伝えられている。
尾曳稲荷神社 館林市尾曳町10-1
(絵図面:館林御城図 尾曳廓部分(徳川綱吉時代) 国立国会図書館蔵より)
八幡郭の北に位置する。館林市民にとって親しみのある場所。東西に長い敷地は現在と同じ。明地とかいてある場所は、今も空き地。
尾曳神社の周囲は堀に囲まれていたのがわかる。北側の堀は全て埋めてしまっていて面影もない。
明地の南がすぐに堀(城沼)になっている。明地から堀へ続く斜面にツツジか植えられた。
子どものころは、お堀の場所に蓮を栽培していた湿地帯で堀の面影がのこっていたが、それも埋められて駐車場になってしまった。
安政5年の絵図より。(わかりやすくするため堀と土塁を着色しました。)
尾曳稲荷神社の参道と社殿。綱吉時代の絵図とかわらないたたずまい。(2012年3月25日撮影)
尾曳神社本殿。改修したらしく鮮やかな朱色が美しい。
奉納記念物「手水(ちょうず)鉢」尾曳神社境内
寛文元年(1661年)徳川綱吉は館林25万石の藩主となり、
(綱吉は1680年に5代将軍となるまでの約20年間、館林城主だった)
将軍家の権威を示すため城郭の大修築を行った。
(寛文4年、幕府から城修築のために2万両支出された)
石垣工事に従事した江戸の石工頭が寛文5年に奉納したもの。450年前のもの。数少ない綱吉時代の遺品。刻まれた文字は
「御城内石垣中間江戸石屋源左衛門外二名、寛文五天乙巳三月吉祥」と記されている。
●2014年6月16日、判明。「館林人物誌」(昭和16年刊)の綱吉のページに掲載。
尾曳神社の狛犬は秋元礼朝公が奉納したもの?
弘化3年(1846年)の銘が刻まれている。弘化2年11月に幕府から移封の命が下された。
秋元の家臣たちが、
山形から館林へ引っ越してきたのが弘化3年。城の守り神でもある尾曳稲荷にこれからもよろしくと
狛犬を寄進したと考えられる。(これ、推測です。)なかなか出来のよい、雰囲気のある狛犬。
尾曳稲荷神社の本殿奥にある弁天様。ここは堀の中の中洲(島)に建立された。(弁天様は水に関係する神様なので。)
以前は奥の部分の石垣のところまで水があった。奥の石垣は近年につくられたもので、昭和のころは土塁だった。
この堀は絵図面によれば、尾曳廓をぐるっと一周していた。
「館林女子高校に残る尾曳廓の土塁」(安政5年の絵図参照)
上の写真の土塁と建物の間に掘があった。
この堀は西に延びて、千貫門まで繋がっていた。館林女子高校はこの貴重な城の遺構を大切に残す義務がある。よろしくお願いします。
尾曳神社境内の南にひろがる「明地」
綱吉時代の絵図面に描かれている「明地」そのまま残っている。ぜひこのままの状態で大切にのこして欲しい。
尾曳郭の明地にある東屋から八幡郭をのぞむ。
この東屋は子どものころからあり50年以上このまま。なんだか嬉しいね。尾曳廓と八幡廓の間は堀。以前は湿地帯で蓮の栽培をおこなっていたので堀の面影がのこっていたが、埋められて駐車場になってしまった。(でも、この駐車場は便利。駐車場がなかったときは、尾曳廓の明地にクルマを止めていたので、それよりははるかにいい)
堀を埋めて作られた駐車場。以前は蓮の田んぼだった。駐車場の東側(右)が尾曳廓につながる土手の斜面でツツジがたくさん植えられていて春はきれい。南側は八幡廓(旧秋元別邸がある)と本丸。ドーム状の屋根は館林市出身の宇宙飛行士・向井千秋(旧姓内藤)を記念するこども科学館。
「尾曳神社本殿わきに残る土塁」(安政5年の絵図参照)
尾曳神社本殿うら、夏の暑さの厳しい館林でこの場所は涼しいベストスポット。中学・高校の夏休みによくこの石のベンチで昼寝を楽しんだ。 城沼をわたる風と尾曳神社森の木かげがすずしくて毎日のようにきていた。本をよんだりスケッチしたりと・・・懐かしいベンチ。
尾曳神社所有の文化財
とくに、館林城絵馬はとても貴重だ。このホームページで何度も使用している。
戊申戦争関係が多いのは、最後の藩主秋元家が官軍側について協力したため。秋元氏は本来、徳川譜代の家だが、毛利家から秋元家へ養子となった関係で、長州藩とのつながりが濃い。館林藩は徳川と深い結びつきがあったが、このことが幕府側につかず官軍側についた理由。
かわいい狐の置物。本殿の裏の基礎石の上にちょこんと乗っている。
神社正面にある狐の狛犬(?)は顔がこわい、というか妖気が漂っているがこの置物は多分、平成生まれなのだろう。
カワイイ文化がここまできたか、でもかわいいね。