ギャラリー/館林城・城下
大手は追手のあて字、裏門というか非常の場合の逃げ道でもある搦手(館林城では下戸張門)に対する表門の意味。
綱吉時代の絵図面によれば、館林城の大手(追手)は石垣で囲まれた枡形が作られ、
外側に棟門、内側に櫓門を建ててある。その二重の門によって厳重に防御している。
場所は現在の三角公園(戦前は片町公園)。
25万石の館林藩の表玄関でもあるので格式があったに違いない。
江戸城の桜田門と同じ右折れの枡形なので、桜田門を参考にして制作。
絵図面:館林御城図・追手部分(徳川綱吉時代) 国立国会図書館蔵より
秋元藩主時代の絵図面。大手門の基本構造は綱吉時代から変わらないが、城門の仕上げが簡素化されている。
また枡形の北側が石垣から土塁になっている。
尾曳稲荷に奉納された絵馬に当時の姿が残されている。
絵図面:館林城絵図・部分(秋元氏時代) 館林市立資料館蔵(進藤家旧蔵)
明治6年(1873年)浮世絵師北尾重光によって描かれた大手(追手)の櫓門と棟門。土塁、石垣、
堀の様子がわかる。
櫓門の背景には大名小路、代官町、鷹匠町も描かれてある。
「館林城絵馬・部分」(館林市指定重要文化財)97cm×120cm 尾曳稲荷神社蔵
弘化3年(1846年)の大手門。(資料:館林市史特別編第2巻415P)
秋元家家臣山田喜太夫の妻・音羽が描いた道中記「お国替絵巻」より。(山田秀穂氏所蔵)
秋元家が山形から館林に国替えになったときに描かれた記録。1846年の大手門がわかる貴重な資料だ。
山田音羽さん、よくぞ描いてくれました。感謝。
それにしても絵がうまい。特にディテールが秀逸。
弘化3年5月2日、家臣達は山形を出発。館林に向かう。6月11日に館林到着。
大手門の記述は
「大手の御門のけっこう、入りてみれば大名こうじ、誠に立派にて目をおどろかすばかりなりけるに・・・」
明治17年(1884年)に測量され明治20年に発行された地図。
幕末の館林城の土塁の場所が鮮明に読み取れる貴重な地図。
大手門のあった場所は現在の三角公園なので、明治の地図でもよくわかる。土塁の切れている場所が櫓門があった場所だ。
地図を見ると、まだモスリン新道はない城下町と城内をつなぐ道は大名小路だけ。
大名小路から郵便局は向う道はまだ作られてなく、氷屋の八木さんの道と繋がっている。
明治17年7月に測量された地図「第一軍管地方2万分1迅速測図より 国土地理院蔵
明治初期の陸軍はフランス式の軍制を採用していたので地図もフランス式に着色された地図となっていて、
実にわかりやい。
焦げ茶色の土塁、オレンジ色の水田、薄緑色の竹林、赤色の建物、水色の城沼等々。
着色された地図は江戸時代からの伝統を考えれば、日本人には普通のことだった。
それまでの地図は色彩豊かであったのだから。その後、軍制がドイツ式に改変され、
地図は1色刷りとなってしまった。
この地図は、江戸と現代をつなぐ貴重な資料。
団塊の世代にはなつかしい三角公園。この小さな公園は私の遊び場でもあった。この小さな公園が輝いていたのが昭和30年代だ。
ブランコと鉄棒しかなかった公園に、大型の遊具が登場したのだ。近隣のこども達が多数あつまり、遊具に乗るのも順番待ち。危険なほどの混雑だったのだ。
他に印象深いのが、小学生のとき、この公園で催されていた、アイヌの熊祭りだったか、民族衣裳のアイヌの人たちを
初めて見た。
あれはいったい、何だったのだろう。アイヌの人たちは、みな静かで、不機嫌そうだったし、暗くもの悲しい印象しか残ってない。
上図は綱吉時代の地図に現在の三角公園を重ねたもの。下図はグーグルマップ。
明治になり、櫓門からカドススに向かって道路が作られた。その際、土塀の土で堀を埋めたのだろう。枡形の周囲を形作る石垣は、払い下げられ、みんな売ってしまったと記録にある。時代の流れという仕方がないのだが、石垣を売るなよ!と言いたい。これが残っていれば三角公園はもっと素晴らしい公園になったはず。しかしこの枡形の場所には同級生の家が数件ある。Y部くん、K竹くん、元気かな?
綱吉時代の絵図の特徴として、重要な場所は大きく描かれている。城内の縮尺は極端に短縮されているにのがわかる。
(防衛上の機密のためか、単なる省略なのか、おそらく両方)。追手の櫓門から三の丸の土橋門までの距離がかなり縮小されている。
地図の縦方向にたいして70%くらい、ヨコが短い。
大手門のあった現在地。(2012年3月25日撮影)三角公園から東に延びる大名小路を撮影。