ギャラリー/館林城・城下
城下を南北に縦断する主要街道・「日光脇往還」の佐野方面への出入り口。北に位置するが佐野口。
綱吉時代の絵図によれば江戸口と同じ壮麗な櫓門であり。枡形の形態で堀と石垣を備えた堅固な門。
館林市では近年、存在の薄いエリア。(佐野へのルートが東の5号道路に移ったため)おかげで佐野口の両脇には開発をまぬがれた土塁や堀の保存状態が良好。
絵図面(上):館林城下町図(延宝2年徳川綱吉時代)青山守治氏蔵〈館林市指定重要文化財〉より。
(下)秋元時代(嘉永);館林市立資料館蔵
佐野口が台地の端。佐野口をすぎると坂道になっていて低くなる。かつては渡良瀬川が大きく蛇行してこの近くまで流れていたのだ。どうりで地面が低いはず。佐野口の先に多くの新しい住宅があるが、渡良瀬川の堤防が大雨で決壊したら、冠水する場所に住んでいて不安がないのだろうか?津波はこなくても、大水は必ずくる。館林には洪水との長い戦いの歴史があったことを忘れているのでは・・・・。東日本大震災のあとだけに、佐野口に立って佐野方面を眺めると災害の映像がリアルに浮かんでくる。
米軍が占領政策用に撮影した昭和22年の空撮・写真は多くのことを教えてくれる。この写真を見たときは衝撃だった。渡良瀬川の自然の姿がわかったからだ。その後、農地改良事業などの整備でこの河川跡はわからなくなった。しかも、農地から宅地に転用されて住宅になったところも多い。土地の履歴を調べると多くのことがわかる。
館林は湿地帯に浮かぶ島のような場所だった。これでは敵が攻め難い。榊原康政がこの地形を生かして城下町を作ったのも理にかなっている。
[佐野口の両サイドにのこる土塁と堀]
台宿町を囲む土塁の跡は良く残っていて、かつての面影を感じることができる。
堀の跡には水があり、しかもきれいだ。かつては深い堀だったのだろうが長い時間が経過し、浚渫作業もしてないので浅くなってしまった。でも、浅くても堀は堀だ。こうして水があるとなんて落ち着くのだろう。佐野口を中心にして西は第一中学まで。東は広済町(現・朝日町)まで土塁と堀が続く。少しでも長くこの状態を保って欲しい。館林城ファンのお薦めの散歩道だ。
朝日町から佐野口そして一中までの土塁と堀。2012年5月4日撮影