ギャラリー/館林城・城下
二の丸の西に位置し、南は城沼に面し、北は本丸・二の丸から続く城沼の入江があり、守られている。三の丸への出入り口は土橋門と千貫門、二の丸へ続く二廓門があった。周囲は土塁がめぐらされたいるのが絵図面でわかる。
「館林市史」によれば、近世後期の三の丸の詳細が記載されている。
坪数:7848坪余(2万5900平米)、土塁の高さ2間。長さ333間余(約600m)。北と西には高さ6尺の瓦塀が建ち、南には柵がめぐらされていた。
内部には城代屋敷、用屋敷、外用屋敷、土蔵、外城代屋敷が建ち、さらに千貫門脇に大番所、土橋門脇に足軽番所、また、井戸が5基記されている。秋元時代には藩主屋敷があった。
明治維新後城地は順次民間に払い下げられたが、旧藩士が城跡を後生に残そうと土地の買い戻しに動いた。特に三の丸は秋元藩主屋敷があった場所であり明治7年旧藩士の有志が集まって買い戻しを決め、明治12年旧藩士14名の共有となった。その後、旧藩士は三の丸の土地を秋元家へ献納し、さらに本丸・二の丸八幡廓・稲荷廓も秋元家で買収し、城郭の主要部は再び旧藩主の所有となって、荒廃を免れた。
2013年4月19日、このサイトの読者であるS本氏からメールがありました。三の丸の解説図の間違いを指摘されました。氏の指摘をくわしく検討した結果、私の間違いでした。灯台もと暗しとはこのこと、生まれ育ったエリアだけに先入観に支配されてました。自分でも違和感を感じていたのですが、氏の指摘で霧が晴れるように理解できました。ご指摘ありがとうございます。よりよい館林城サイトにするためにも、疑問がありましたらメールをいただけると嬉しいです。
念のため、間違い図も資料として残しておきます。(以て他山の石とするため)
絵図面:館林城下町図(延宝2年徳川綱吉時代)青山守治氏蔵〈館林市指定重要文化財〉より
三の丸上空写真、昭和29年4月撮影。館林市制祝賀式典(三の丸で開催)の白テントが三の丸内に張られている。城沼と堀を着色して、水に浮かぶ館林城のイメージを伝えやすくした。昭和29年でも城の遺構がこれだけ残っていた。お堀に囲まれた三の丸と鷹匠町の町並みは、昭和26年鷹匠町生まれの私の原風景でもある。(2012/11/06追記)
元資料は「川島維知編 写真集館林」国書刊行会発行 138Pより
[三の丸・市民プール] 昭和33年(1958年)市民プールができた。小学3年の時だ。館林で最初にできたプールは大人気だった。 今までにあれだけ混雑したプールに入ったことがない。
昭和49年(1974年)文化会館完成。その時点で三の丸は激変してしまった。土塁が寸断され、堀は埋め立てられ駐車場になった。市民生活の利便性に貢献するためにはしかたのない選択だったのだろう。
その文化会館も40年近くたち古さが目立つ。いずれまた、立て直されるだろうが、その時は是非、移転して欲しい。大ホールはこの場所でなくてよいと思う。幸い館林には広い所はいくらでもあるが無駄な出費をふせぐために、ぜひ多々良の県立館林美術館と相乗効果(駐車場やレストランの共有)をめざして移転してほしい。(館林美術館の来館者の実数は知らないが、いつ行っても閑散としている)文化施設の集約という補完効果があり、互いにメリットだろう。
下の写真は昭和49年の空撮。
手前の三の丸から二の丸、外郭、稲荷郭の位置関係がよくわかる。埋められて消滅した堀を写真の上に重ねてみた。さらに城郭の構造がわかりやすくなる。特に丸戸張門から千貫門への入り方がかつての枡形の形態を踏襲しているのがわかる。入江堀もこの時点(昭和49年)では掘が残っている。数年後、市庁舎が建設されると入江堀は消滅してしまう。外郭の北側の堀もこの時点ではおおよそ場所が特定できるが、やはり埋められてしまい消滅。城郭の構造が消されてしまった。今の子どもにかつての堀は想像できないだろう。これでいいのだろうか・・・・。
たとえば、私の場合、丸戸張門の手前・北側の堀の脇が二中への通学路だった。当時、堀の中は蓮が植えられていたがドブのような状態で、ゴミも投げ棄てられていた。当時の人たちもけっしてマナーがよくなかった。それから埋め立てられ、ガソリンスタンドができた。下の写真でガソリンスタンドが確認できる。
昭和49年撮影
館林文化会館(ホール)前テラス。土橋門との関連性もなく、ただ広いテラス。
土橋門からの動線をいかし、いにしえの館林城を彷彿させる施設が欲しい。
郷土出身の彫刻家・藤野天光作「光は大地より」
藤野天光(ふじのてんこう)1903年-1974年本名は藤野隆秋。1928年東京美術学校(現・東京芸大)卒。北村西望に師事。日展審査員、日本芸術院賞受賞。