五宝寺

【五宝寺】(ごほうじ)

鎌倉後期の永仁5年(1297)讃岐国善通寺の僧俊清和尚の開基と伝えられる。
江戸時代末には末寺四十数カ所をもつ有力寺院だったという。現本堂は亨保年間(1716〜36)第19世弘誉和尚のときの建築といわれる。境内には多くの石仏がある。本堂に向かって左側に永仁5年造立「不動まんだら板碑」(県指定重要文化財)がある。板碑のそばに建つ聖天堂の本尊断喜天は旧天福寺(明治41年五宝寺に合併される)に安置されていた。天福寺は天福元年(1233)創建という。華麗な彫刻で飾られた聖天堂があった。大正元年焼失、実に惜しい。

五宝寺絵図▲綱吉時代の絵図1670年代と秋元時代の絵図(1850年代)の比較。現在の一中の敷地は天福寺というお寺であったことがわかる。

(2018年1月6日アップ)

【境内】五宝寺の佇まいは美しい。

落ち着いた江戸時代の空気が流れている。手入れされたお庭が美しい。五宝寺境内写真▲おだやかな秋の日差しに包まれた境内。さざんかの古木に赤い花が一輪。利休のおもてなしの故事(椿の花一輪)のようだ。
(2018年1月9日アップ) 五宝寺パノラマ

【本堂】三百年前の建築。

享保年間(1716〜36)の建築といわれる。火事の多い館林は幾たびか火災が発生し多くの寺院が焼失している。城下町館林の貴重な建築。 享保時代の将軍は8代徳川吉宗(享保元年就任)だ。館林藩では6代将軍家宣の弟・清武が藩主となっている。
享保といえば「享保の改革」が有名。
五宝寺本堂▲2018年1月12日撮影。本堂を飾る彫刻が美しい。

【聖天堂(しょうでん)】天福寺の歴史をつたえる。

聖天堂
▲館林図書館発行の「館林の寺社」では聖天堂と紹介されているが、お堂の額は「聖天宮」と書かれている。どっちだ?
このお堂に安置されたいる本尊は「歓喜天」。(館林図書館発行の本では断喜天と書かれている。図書館の間違いだろう。しかたがないね人間は間違うもの)
▲五宝寺の聖天堂は旧・阿弥陀堂であった。(明治41年に天福寺は五宝寺と合併。歓喜天は五宝寺の阿弥陀堂に安置された)

歓喜天(かんぎてん)は仏教の守護神である天部のひとつ。
安置されている歓喜天は、五宝寺の西隣にあった「天福寺」に安置されていたもの。天福寺は鎌倉時代の天福元年(1233)の創建。本道は安政年間の火災で焼失したが幸い境内にあった聖天堂は類焼をまぬがれた。
歓喜天の御利益は「富貴を与え、病を取り除き、夫婦和合、子宝を与えるといわれた。」こうしたことから綱吉の生母・桂昌院の発願によって綱吉や、館林城主・松平武元(たけちか)によって再建されたという。
超・華麗な彫刻がほどこされた天福寺の聖天堂が完成した。これが現存していたら、国宝または重要文化財(確実!)になっていたはず。古い写真を紹介。

【不動まんだら板碑)】785年前の板碑(いたび)。

この板碑(いたび)は五宝寺歴代住職の墓地内にあった。

註)板碑(いたび)とは、鎌倉時代から安土桃山時代に作られた供養塔。戦国時代になると廃れた。板石卒塔婆、青石塔婆とも呼ばれる。
青石とは埼玉県長瀞周辺で産出される緑泥片岩。青石は薄く板状に割れる。材質は柔らかく加工しやすい。しかも色が美しい。
板碑は関東地方が中心。埼玉県だけで2万基以上の板碑が確認されるという。
供養のために造られた「不動まんだら板碑」は永仁5年(1297)に建立されたもの。
群馬県指定重要文化財となっている。

※コラム※
永仁5年は鎌倉幕府9代執権北条貞時(国難を救った英雄・時宗の嫡男)が日本初の徳政令「永仁の徳政令」を発令した年。 中世日本最大の国難・元寇から20年がたった頃だ。 
足利尊氏の父親・貞氏は北条貞時の貞を諱としてもらった。ちなみに足利尊氏は「不動まんだら板費」建立の八年後1305年生まれ。(残念ながら生まれはお隣の足利市でなくて、京都府らしい・・・。)
この板碑から当時の時代を感じてほしい。(無理かも・・・)


不動まんだら板碑

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