法輪寺

【法輪寺】


[解説]
慶長年間、分福茶釜で有名な茂林寺の正雄和尚の徳を慕い、城の北端付近に住んでいた人々が寺を建て、茂林寺の林をとって法林寺とした。
綱吉時代、延宝3年に現在地へ移転、「法輪寺」と改める。移転のきっかけは、綱吉と母・桂昌院の支援で館林城北部に広大な黄檗宗・広済寺が建立されたため。慶応4年(1986)閏4月、斬首された小栗上野介父子の首実験が館林であり、法輪寺に埋葬された。明治2年4月、一周忌に首級を取り戻される。
境内に、館林藩名家老・岡谷瑳磨介(安政の改革を指導)、藩校教師・田中謙三などの墓がある。

(2018年1月30日アップ)

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