観性寺

【観性寺】(かんしょうじ)

天正4年(1576)法印弘喜により創建され「観音寺」と称した。古くは「材木町の薬師さま」とよばれ、薬師堂の祭礼はたいへんな賑わいであったという。眼病の人の信仰が篤く「目の絵馬」など多くの絵馬が奉納されている。小室翠雲の虎の絵馬が有名。
嘉永元年(1848)火災により焼失。再建後も火災にあう。明治41年、寺の北にあった鞘町の自性院(じしょういん)を合併した。自性院の仁王門(木造の仁王像が安置されている)と、薬師堂を移す。寺名を「観音寺」「自性院」から一字ずつとって「観性寺」と改めた。


観性寺絵図マップ▲左絵図は綱吉時代の絵図。自性院の山門(仁王門)が描かれている。現在の仁王門と絵が同じ。
右の絵図は秋元時代。 絵図を見ると、観音寺の面積がかなり小さい。
観音寺西隣の寺は「高徳寺(こうとくじ)」。高徳寺は館林ではめずらしい天台宗の寺であった。明治維新の廃仏毀釈のさいに廃寺となる。廃仏毀釈運動で高徳寺の仏像が焼かれるなどの被害にあったという。ご本尊の如意輪観世音を観音寺がもらいうけたという。
観性寺境内

(2018年1月13日アップ)

[仁王門、仁王像]

自称院にあった仁王門。安置されている仁王像をぜひご覧下さい。表情、眼力、筋肉の表現が素晴らしい。
館林の優れた文化が偲ばれる。

観性寺仁王門(2018年1月9日アップ)

[薬師堂]
材木町の薬師さまといわれ、眼病に御利益があった。

多いににぎわった薬師堂。「目の絵馬」がたくさん奉納された。
この薬師堂は文禄元年(1592)まで内加法師(朝日町)にあったが、榊原康政の館林城拡張工事のため康政の家来、石川左次衛門が奉行となり文禄元年に自性院(鞘町)に移したものであった。明治43年に観音寺と合併し現在の場所に移築された。
秋元時代の絵図にヤクシとカタカナで書かれている。建物の絵は現在の薬師堂より立派に描かれている。館性寺薬師堂▲薬師堂に飾られた額と絵馬。庇の下には時の変化に耐えた美術品のような立派な絵馬が掛かっている。庶民の願いをこめた素朴な絵馬も多い。江戸時代の賑わいが偲ばれる。
(2018年1月13日アップ)

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