千眼寺

【千眼寺】(せんげんじ)

鎌倉時代の貞永元年(1232)僧英弁の開山と伝えられる。榊原康政が城下町を築く以前からこの地に建っていたという。古くは京都嵯峨大覚寺直轄で、谷越町に宝幢寺(ほうとうじ)、小桑原村に密蔵寺などの末寺があり寺運も盛んであった。明治15年、火災で焼失。その後再建される。明治44年大覚寺を離れて、奈良・長谷寺の門末となった。
境内には館林生まれの南画家・ 小室翠雲(すいうん1874〜1945)の墓がある。翠雲は足利の 田崎早雲に学ぶ。谷文晁に繋がる日本画の大家。千眼寺絵図 ▲榊原康政築城以前から現地に建つ、館林の古刹である。現在の中部公民館(旧・館林市庁舎)の敷地までが千眼寺であった。

(2018年1月3日アップ)

△ページの先頭へ