善導寺トップ


[館林駅も善導寺の敷地の一部だった]
寺伝によると、和銅元年(708)名僧・行基(ぎょうき、668〜749年)菩薩が東国地方遊歴のさい、土橋と加法師の間にある林に草庵を営んだことに始まるという。その後、鎌倉時代の建治2年(1276)良暁上人が再興し、善導寺と称した。以来、地方領主の檀林として繁栄したが、戦国の世になり荒廃した。
天正18年(1590)榊原康政が館林に入部したころ、江戸で名高い幡随意上人が行基開基という名刹の再興を志し善導寺の住職となる。榊原康政は上人に深く帰依し、寺を城下町に移転。10年の歳月をかけて立派な寺にした。浄土宗の学問所である檀林にも選ばれた。関東18檀林・善導寺で修行した僧のひとりに、渡辺崋山(田原藩家老/蘭学者・画家)の弟・定意がいる。弟は渡辺家困窮のために善導寺へ預けられ成長した。(出典:「館林の社寺」より)
境内には榊原康政忠政康勝等の墓がある。
昭和65年、名刹・善導寺がなんと、都市計画によりに移転(城沼東端へ)。 跡地に商業施設・キンカ堂がオープンした。現在はただの駅近駐車場。城下町の景観を著しく損なっている。都市計画とは一体なんだったのだろうか? 合掌。
善導寺が城下町に戻ってきて欲しいと多くの市民が感じている。
(2018年3月31日修正アップ)

【城下町時代の善導寺】

昭和65年まで約400年、城下町南西端部の広大な敷地に建っていた。藩主榊原康政のお墓があるのだから当然。


善導寺江戸絵図と古写真▲絵図は綱吉時代の絵図(青山家所蔵)。写真は川島維知編「写真集・館林」(昭和53年発行 国書刊行会)より転用。 感謝。

◎写真を拡大して観賞したいので。 善導寺山門▲昭和3年の写真。善導寺の山門は朱塗りの楼閣だった。慶長年間、榊原康政の館林城下町建設にともない、館林第二中南方にあった善導寺を谷越町に移転。その時に建てられた山門。現在もあれば、重要文化財だろう。この楼上に「勅願所」と記された扁額がかかげられていた。
右円の写真は不動堂。不動堂は善導寺が移転する以前、修験道の寺院・加納院の仏堂として建てた。加納院が善導寺と入れ替えになったとき残していったものという。
◎さらに拡大。かつての記憶にもとずいて着色してみました。
  楽しめます。重文当確。整備すれば国宝クラスだ。
(むなしくなるなあ・・・)
善導寺山門復元カラー

▼下の写真は善導寺の前庭で公園のように自由に遊べた。敷地も広く、川も池もありこどもの遊び場としてうってつけだった。
写真の下を流れる小川の水源はわき水だ。現在は暗渠になり道路と化した。キャノン美容室の西脇に暗渠の上部が露出した排水路がある。はっきりいって、汚い感じ。
せっかくの水源なので、水を活かしたプランで再開発しましょうね。親水公園だ。
ふたつの写真を見る限り、植栽に溢れた館林では現在のような夏の高温は無かったはず。
町から植栽や樹木が失われた結果、植物が水分を蒸発させて気化熱をうばう作用が激減した。それが夏の高温の原因だと思う。
善導寺不動堂
60年前の館林。名匠・黒澤明監督映画のワンシーンのような美しい空気感。豊かな自然と歴史。この写真の時、私は4歳だった。

現在の館林は果たして前進したのだろうか、進歩したのだろうか???
より進んだ都市計画の知見を動員して館林を再生させるべきと思う。50年かけても実現すべきだ。未来の子ども達のためにも館林を変えなくてはならない。60年前の館林をヒントすれば可能なはず。

現状の写真をこれから撮影して比較する予定。
(2018年1月22日アップ)

【現在の善導寺写真】(2018年3月30日満開の桜の季節)


桜と善導寺▲境内から山門を望む。(上)
本堂(下左) ご本尊(下右)
善導寺情報板

「榊原康政の墓」
榊原康政の墓▲左の大きな墓が康政の墓石。 右に嫡男の忠政。康勝。花房氏の墓。
撮影:2018年3月30日(金) 田中茂雄
(2018年4月2日アップ)

△ページの先頭へ