最新情報/館林城調査・研究・提案


【2015年12月19日土 読売新聞夕刊1面。江戸城の記事】 

12/19日土曜日の夕刊トップはなんと江戸城天守の再建計画のお話し。
しかも名古屋、小田原、甲府の再建運動の記事も。 羨ましくも、良い流れを感じる。
人はシンボルを求めるもの、集団になればなおさらだ。そのシンボルは目的によっていろんな形がある。
有形無形さまざまだ。 それでよい。東京に江戸城の天守が再建されたら私は嬉しい。
 記事を読むと復元に350億円必要という。2020東京オリンピックの諸施設と比べてなんて割安なのだろう。
新国立競技場の1/5以下。 ザハ案廃止で生じた予算で十分作れるね。都民も都税からの負担を非難しないだろう。 (非難する人はかならずいるが・・)

小田原城の天守を立て替える費用が約50億円。名古屋では2020年に木造天守の再建を計画。その予算は270〜400億。
館林城・三重櫓(天守)再建の場合は石垣や堀の整備を含めて小田原城と同等だろう。(約50億円)
館林の明るい未来のために是非とも再建をめざそう。市と県、トップの英断を求む!
2015年1219日読売新聞
▲12月19日読売新聞1面(トップ紙面)

「館林城の再建をめざす会」は館林のシンボルとして立派な城を考えている。
かつて綱吉時代に輝いていた三重の天守と石垣・堀を再建したいのだ。
その確実は方法は、まずは多くの市民の熱意とそれを形にする行政。道は遠いが目標だけでも掲げる必要がある。
イメージしないことには実現しないのだ。
(2015年12月20日アップ)

【二業見番が登録文化財になりました。遅いけれどよかった。】 2015.11

ようやく文化財として承認された。保存活動に弾みがつく。慶賀!
2015年夏頃から噂として耳に入ってきました。登録文化財になった経緯がよくわかりませんが、
11月、元・館林市観光課長からのメールでわかりました。
登録文化財になると、建物の保存・運営がどのようになるのか、現在不明ですが、良い方向に向かうことを願っています。
(2015年12月1日アップ)


【二業見番が少しきれいになりました。】 2014.06.21
「長澤理玄展(2014年5月16〜18日)」の成果が現れました。

先月開催された「長澤理玄展」。200人を越える入場者がありました。
長澤理玄の功績を紹介するのはもちろんでしたが、会場の二業見番を見てもらい。維持管理態勢を早急に整えて欲しいとアピールしました。館林の貴重な文化遺産を消滅させたくありません。
廃墟のような状態での保存も望みません。華やかで、しかも風情がある建築を生きた状態で残したいのです。そして使って欲しいのです。展覧会には、上毛新聞、読売、毎日、群馬テレビなどのマスコミの方にも二業見番の現状を紹介しました。
また、会場に訪れてくれました館林の名誉市民である正田様や。市役所の広報、営繕課の若手職員、そして市会議員にも二業見番の維持を訴えてきました。
その成果が少しだけ現れました。二階、和室の障子がきれいに張り替えられました。どのようなルートで情報が伝わり、市が動いたのか分かりません。ささやかな一歩ですが、大きな前進です。
引き続き、屋根の修繕。ガラス戸の修繕。ふすまと畳の張り替え、2階トイレの改築。やることは沢山あります。ぜひ実行をお願い致します。
また、保守管理だけでなく、(二業見番を町内会の会館のみに使用するのでなく)ひろく観光客にも開放して、二業見番を観光資源として活用すべきです。潤いのある館林を取り戻すためにも大切な財産です。
(2014/06/21アップ)
二業見番、きれいに

【館林おそるべし。文化財たくさんあり! 建築家 I 氏からのメール】 2013.08.06

「よみがえる館林城展」を東京から見に来てくれた友人の建築家(大学講師で古民家の研究をしている)から楽しい写真がメールでとどきました。館林の魅力を専門家から違った視点で教えてもらうのは素晴らしいことですね。館林の魅力が増えていきます。
(2013/08/06)伊剛氏からのメール

【この夏「よみがえる館林城展」を開催します。】 2013.03.15

展覧会画像ただ今、全勢力を投入して、企画、広報、展示物制作を実行中。昨年末から企画を温め、今年に入り、正月早々から会場探し、広報、制作など多くの方々の協力を得て、ようやく発表できます。「よみがえる館林城展」のサイトをアップしました。
メインの画像の館林城全図は半年にわたる制作期間をつかい、2013年3月に完成。こん身の作です。この絵でポスターを制作します。ご期待ください。なお、展覧会の 詳細を順次、で報告いたしますので、ぜひご覧下さい。
館林城の再建をめざす会・会長 田中茂雄 (2013年3月15日)
(上図の画像を無断で複製、使用することを固く禁じます。)

【館林城調査(6回目)小泉口、日清製粉資料館前の堀】 2012年8月1日 

全国一の猛暑を記録し続ける館林に3時到着。暑い。東京より2〜3度暑い。でも、子どものころも暑かったし。夏はそれが自然なこと・・・とはいえ十分に水分補給をして調査開始。
今回の調査は事前の資料をかなり詳しく用意。小泉口は小学校(旧・南小)の学区外にあるので、詳しくないからだ。綱吉時代の絵図、秋元時代の絵図、そして江戸と現代をつなぐ明治時代の地図を用意。とくに役に立ったのが下の図版だ。
明治の地図と現代のグーグルマップを縮尺を調整して重ねる。しかも画像を半透明にして重ねた作った図が下の図。これで一目で過去と未来を見渡せるマップが完成した。この手法はこれからの調査に力を発揮してくれるに違いない。この画像を作るために使用した画像ソフトはフォトショップ。仕事でよく使うソフトなので、操作もらくらく。
このマップのおかげで現地調査は時間短縮できた。(加法師口の3分の1)炎天下、熱中症にもならないで調査完了。詳しくは「小泉口サイト」で(2012/08/01)

3回目調査
善導寺には、元の場所に戻って欲しい。時代はすっかり変化してしまった。駅前に廃墟のような空きスペース(キンカ堂はなくなり(2010年倒産)跡地はアスファルトの無味乾燥な駐車スペースが残されただけ)と中途半端な商業施設はもういらない。
昔のような善導寺に戻ってほしい。榊原康政のお墓も元の場所にもどすべきだ。そうすれば、先の3.11の地震であの立派なお墓が倒壊することもなかっただろう(移転先は城沼のほとりで地盤が悪かった。倒壊直後に調査のために訪れ、倒壊の現場をみてしまったのだ合掌)。
善導寺の 立派な本堂と威厳のある山門、そして山門の東には緑地が広がっていた。南小では、その広場でよく写生大会を開いた。あの静寂な空間と深い緑が、猛暑で苦しむ館林をだいぶ緩和してくれるだろう。もとにもどる費用はみんなで公的に支援すべきだ。(今の場所は別院として残して置けばよいと思う。) 善導寺が駅前に戻れば、魅力的な館林の再生に大きく貢献することだろう。きっと榊原康政もこう言うに違いない。「そうせい」と。(2012年8/2) 5回目調査

2012年6月24日 館林城調査(5回目)加法師口

梅雨の晴れ間を狙って、加法師口の調査を行った。調査と言っても、場所の推定だけなのだが。
事前に綱吉時代の絵図面と、秋元時代の絵図面と、昭和22年の米軍の航空写真をパソコンにいれて、昼に東京を出発。現地に2時到着。パソコンの絵図面を見ながら現地を歩く。
まず、秋元時代(幕末)の加法師口を探す。おおよそ見当をつけた場所は、中学時代の通学路の近くなので土地勘はある。同級生のM宅くんの家の裏あたりだ。45年ぶりに歩く道だが、3年間も通った道なので記憶が蘇ってくる。 それでも絵図面と現代の空間との差は大きい。なかなか特定できない。特に藤岡県道の存在がじゃまになって江戸の街区をわかりにくくしている。しかたなく、第三小学校周辺まで含めて調査。調査途中で田山花袋の旧居の場所にであった。敷地は更地になっていたが入り口あたりは昔と変わってない。(市が史跡として整備していてくれたおかげもある)田山花袋の旧居がわかったのでそこを起点として加法師口のあった場所が見えてきた。詳細は、加法師口のサイトにて。(2012/06/28)

3回目調査
5回目調査

2012年5月5日 館林城調査(4回目)

ゴールデンウィークを利用して館林へ、あいにく天候不順で撮影できず8日のみ良い天気。早起きして佐野口を中心に調べる。第一中学の土塁と堀の状態がよく保たれているが昔に比べて土塁の高さが低くなった気がする。(半世紀近く前のことなので不確かな記憶だが)
佐野口の場所はすぐに特定できた。 今回の撮影は佐野口と、城下町に残された昔の商家を撮影。かつての商家が、かなり少なくなっていて危機感を感じる。

4回目調査
撮影2012.5.5

2012年3月25日 館林城調査(3回目)

先週の調査は雨に降られ、途中リタイア。1週間後、再挑戦。天気も上々なので9時に東京を出発し尾曳神社へ直行。穏やかで暖かく春を予感させる良い天気。今回は絵図面のコピーと現地を見比べて調査・撮影。尾曳神社も勝手知ったる場所なので、調査もはかどる。特に館林女子校の校内にのこる土塁を見つけられたのは良かった。これは大切に保存しなくていけないね。
先週、雨で撮影できなかった三の丸や鷹匠町。大名小路、三角公園(追手)。正田別荘の北側に残る堀の跡も確認。成果は上々でした。

3回目調査

2012年3月18日 館林城の第2回調査

お彼岸での帰省を利用して、千貫門と土橋門を中心に城下の江戸口と太田口を調査。天気がくだりはじめ、2時過ぎに雨がふりはじめた。調査中止。残念。

2回目調査

2011年9月11日 館林城の第1回調査

綱吉時代の絵図面などの資料も持たず、幼い日の記憶と、現状の違いを確認するだけの調査。9月といっても残暑というか、館林名物の猛暑というのか、暑くて集中力が持たない。秋元別荘と、本丸跡、南郭跡、本丸の石垣など2時間ほど廻っただけで退散。脱水症状をおこしそうなほど日差しが強い。夏の調査は暑さ対策がなくてはできません。それでも、現地を歩くと子どもの頃の記憶がよみがえる。秋元別荘の裏の林の先は確か本丸を隔てる堀があったはずなのに埋められていた。埋められた跡も確認できた。その堀のため、八幡社に足を踏み入れたことがなかったが、今回初めて訪れた。その静寂なたたずまいに心打たれた。ここにはなにかありますね。西行ではありませんが、何事のおわしますかはしらねども かたじけなさに・・・の心境。

1回目調査