【発見!】2017年4月------私的には大発見なのだ!-----
デザイン界の巨匠・田中一光が館林市庁舎の色彩計画を担当していたとは。
驚愕の事実!驚いた。そして、嬉しい。
作品が館林に残っていたとは----奇蹟だ!!
田中一光を起用した菊竹清訓先生はやはり天才だ。

田中一光 色彩計画▲雑誌「建築」1963年9月号。誌面

【グラフィックデザイン界、真の巨匠・田中一光
(たなか いっこう)1930年1月〜2002年1月(享年71)

田中一光肖像写真前後日本を代表するグラフィックデザイナー。デザイナーに多大な影響を与えた。
デザイン界の頂点に立っていたのだ。私も影響を受けたひとりです。
70年代はじめ、桑沢デザイン研究所のある渋谷・公園通りにパルコがオープンした。パルコ劇場もオープンとなり素晴らしい公演ポスターを田中一光が制作していた。そのレベルの高さに毎回、刺激を受けていた。(通学途中にパルコがあった。デザイン学校の立地は都市に限る。郊外の山中にある美大では刺激が足りない・・・)ポスターをはがしてアパートの壁に貼ったこともある。
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桑沢のクラスメイト(関根さん。クラス1というか桑沢イチの美人で品が良く優しくて素晴らしい女性)が南青山にあった田中一光デザイン室に採用された。 事務所での田中一光の素顔をしりたくて、いろいろと尋ねた。 田中一光は料理が好きで事務所に厨房がある。時間があれば手の込んだ料理を作って所員にふるまうとのこと。1975年頃のことだ。今でもよく覚えている。
雲上人の巨匠の話は強烈だったのだ。デザイナーは生活の質全般を高めないといけない。(田中一光の教え)
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後年、田中一光のお弟子さんで秋田寛氏と新国立劇場バレエ団のポスターコンペで競った。幸運にも私の案が採用されて、新国立劇場バレエ団のポスターデザインを任されることに。学生時代にあこがれていた巨匠にほんの少し近づいた気がして気分が高揚。
(田中一光は亡くなるまで、新国立劇場のアートディレクターをなさってました)
(2017年4月11日アップ、4月18日写真追加)

田中一光氏の作品紹介

作品集「田中一光 伝統と今日のデザイン」1992年発行 より、ほんの一例。
田中一光作品紹介

タイポグラフィ、琳派に通ずる大胆な造形。無印良品に代表される消費社会への根源的な提案と企画力。
いかに重要なデザイナーであったことか・・・。業界以外の方々に是非知って欲しい。
(作品集画像2017年4月30日アップ)


【「建築」誌に発表された田中一光の原稿をご紹介】
建築へのアプローチとその感懐  田中一光 1963年

(1963年「建築」誌掲載記事より転載)---------------------------------------------------

 昨年(※1962年、当時32歳)の春だったか、菊竹清訓氏から、群馬県館林市庁舎の色彩計画をやらないかと、図面がはこばれてきた時は、少なからず、とまどった。 しかし、話しを聞くまでもなく、グラフィック・デザイナーを起用しようという、菊竹氏の、かなり意欲的な意図を、私なりに直感することができたし、それにデザイン会議の時の、「縄文展」や、近代美術館でのディスプレイの仕事などで、多少とも合作のキャリアがあり、菊竹氏の執拗に食い下がってゆく、前衛的な仕事ぶりに対する尊敬と、引っ込み思案な自分を奮いたたせる意味でも、この仕事は大きな喜びであった。

 建築の分野に、このように全面的に、グラフィック・デザイナーが参画したことは、あまり例がなかったようだ。それに、毎年、日本宣伝美術会などでは、公共的なものに対する試案が出品されて、グラフィック・デザイナーのパブリックな発言の場となっているが、現実にそれらが活用されたことも少なく、こんな機会は、できるだけいい結果を、残すようにしたいと考えたりもした。
館林市庁舎は、構造的にも、秀れた設計であることは、青図を通して容易に理解できた。インテリア・デザインというものは、出来上がった料理に、最後の一滴の芳香をつけるようなもので、薬味によっては、食物そのものまで台なしにするような結果だって、考えられなくはないからである。そのような意味からも設計者には、かなり大胆な冒険があるようにも思われ、最初は、この責任の重圧からのがれることにあった。
 ともかく、打合わせを重ねて、設計者とのイメージの綜合から進みだした。
恥しい話しだが、図面と模型では、どうしても建築の空間がつかみきれず、必要以上に頻繁に現場に運んでは、まだ打ちきらぬコンクリートにむかって目をとじた。「ぬりえ」を前にした子供のようであり、自分ながら滑稽でもあったが、館林市を理解する上には、なんらかの収穫をえようと思った。

 人口5万(※1963年当時の館林人口。現在7万5千)、とりたてて象徴すべき観光資源や、産業もなく色彩的なモチーフ貧しい灰色の軒並みからは発見できなかった。かえって、日本のきびしい地方都市の現実を知ることによって、大仰ないい方をすれば、市民の共有の場としての市庁舎に、人間的な意味での、その色彩を奪還すべき、使命を感じることができた。

 私は、グラフィック・デザインでもそうであるが、生命力にとぼしい色弱を、「日本的」と解釈するのは反対である。にぶくて、陰うつな色彩を「渋い」という美語の中で、知的ぶる色盲の多いのに驚くことがある。彩度の高い色を使うことは、その良悪が極端であるだけに危険をともなうが成功するとその効果は、すばらしい。菊竹氏の意見も、むしろ積極的であって、「日本の社の朱ぬりの効果」などについての見解は、ますます、この方針を決定的なものにした。
色彩における機械的なものは、その心理性と繋げて考えられるが、この2つを「訪れる側」と「住む側」に分離して発想した。

  市民の市庁舎へのアプローチは、建築空間的なものから、コミュニケーションとしての指示的なものが、加味されたものに変わる。このことは、公共建築物としての最大の課題であったが、やはり、居住性との接点から、フロアの識別、インフォメーション・パネルとレタリング程度の結果になったことは、出発がそのことに重点をかけていただけに、残念でならない。
フロアは1階は黄、2階—赤、3階—青、4階—緑、5階—紫と、各回の性格に合わせて、扉、窓口などを色別し、入口にはこの庁舎のために創ったレタリングとともにそれぞれの色のインフォメーション・パネルを設けた。

 レタリングは、明朝体を2対3の平体に、リ・デザインし、太く、強く、しかも可視性を目標にしたが、文字の互換性にまだ問題があった。 外観は、白と赤味を帯びた黒のサッシで統一し、内部はミルキー・ホワイトを基調とした。
一定時間しか使用されない、5階議場は、色の視覚的、感情的、象徴的な面を強調した。天井のスリットから、もれる太陽の光の変化は、色彩的にも「戸外」をイメージさせた。吸音のための課=展は模様をさけ、1m反巾を単位に1/2と1/3の細巾の裂地を作り、色彩の明暗に対比を極度におさえた彩度の高いブルー、グリーン、ブルー・コンポーゼ、ブラウンの4色に染め別けて、この3つの巾のものをアットランダムに縫い合わせて、この室のデコラティヴなファクターとした。
模造大理石もその模造性を意識的にデザインして、青と緑のパターンとし、シートその他すべて、前記の色で統一し、机の正面につけられた、白のデコラの鋭いアクセントに期待した。
5回議場 田中一光デザイン▲「建築」122p撮影二川幸夫より。説明文は田中が加工。(調査のためご容赦)。この写真のカラーを探してます。

  萌芽色の床の地下食堂など、職員のためのものはソフトな色を選び、小室の扉は概ねハイ・ライトを作るような対比的な強い色とした。 量産既製品は総じて、色が良くなく、その種類の少ないのに驚いたし、退色のデータの指示も欲しい。これは今後の大きな課題であろうかと思われる。 経験といえば、こんどの仕事で、建築とは、土地に鍬を入れた時から動いているということを、明確に知ることができた。

  この楼閣が完成するのとオーバーラップして使用されてゆくのである。灯りが入り、洗面所に水が流れて、間もなく、市民が獲得した庁舎はその様相を一変していた。私のささやかなクラフトマン・シップからすれば、この仕事は未完成なのである。しかし。前庭の柳が育ち始めた頃は、レモン・エローの扉はカラシ色に変ぼうしているだろうと思った。

  一枚の紙のインクの、そのまだ上の薄い表面に人間の視線を感じるだけで、果され、消滅するグラフィック・デザインとなんと異質なものか

 竣工式は建築の完成でなく、時間に、風雨と、太陽と、手あかと、足おとと、長靴の男の声が反響して建築は生きてゆくのである。
すべて、材質と色彩のデザインはここから発想しなくてはならないのであろう。
(1963年9月号「建築」青銅社刊 記事より転載。  リライト:田中茂雄)

【5階議場の現況はこうなっている】

館林市庁舎5階議場▲カーテンレールは残っている。
これから、田中一光の作品捜査を開始します。どこかにカーテンが残ってないか?人造大理石パターンのデコラは保存してないか?
行方をご存知でしたら、ぜひご一報お願いいたします。

つづく。

(2017年4月18日アップ)



【研究】------ピクトグラムの歴史-----
1964年(昭和39)東京オリンピックはデザインの世界でも画期的なことがあった。
日本の優れたデザインが世界にむけて発信された。は受け入れられた。

開催前年の1963年、組織委員会が置かれた赤坂離宮の小さな部屋(地下1階)にデザイン室が開設される。
草創期からのデザイナー大御所・原弘(はらひろむ)と河野鷹思のほ か、実動部隊として指名コンペ(ポスターの指名コンペ)に参加した永井一正、田中一光、杉浦康平のほか、粟津潔、勝井三雄、道吉剛、横尾忠則といった偉大なメンバーが参加していた。
しか もみんな若い。横尾忠則は28歳、田中一光も34歳だ。(歴史のエピソードでいえば、新撰組のメンバーの年齢に似ている。)
デザイン制作の総合プロデューサーは勝美勝氏(東京オリンピックデザイン専門委員会委員長)。シンボルマークとポスターを亀倉雄策。入場券と表彰状は原弘のデザイン。
メダルデザイン(表・岡本太郎、裏は田中一光)。識章バッジを河野鷹思、聖火リレーのトーチを柳宗理がデザイン。
競技シンボルマークは山下芳郎。プログラムは勝井三雄
施設のピクトグラムはチーフデザイナー・田中一光他10名(福田繁雄、宇野亜喜良、道吉剛 など)。
多様なアイテムをデザインした。しかしデザイン界の有名人というか巨匠ばかりだ。
東京オリンピック競技マーク
▲東京オリンピック競技シンボルマーク。オリンピックのシンボルマークはこれが世界初。以後のオリンピックでも理念が継承された。
施設ピクトグラム
(2017年4月23日アップ)

【発見!】 世界に普及したトイレのマーク(絵文字・ピクトグラム)は
日本発と知ってましたか?
そのルーツがなんと、館林市庁舎・洗面所のサインだった。初耳だね!
サインデザイン・田中一光氏 1963年


建築雑誌「建築」に掲載された田中一光の原稿ページに「市庁舎の洗面所ドアーのサイン」が印刷されていた。 私は職業柄、その造形が気になった。 東京オリンピックのピクトグラムとの共通性を感じたのだ。
デザイナーにとって東京オリンピックのピクトグラムは学生時代の授業で使用される教科書的造形である。
サインデザインの原典とでもいうべきものだ。

東京オリンピックの一連のデザイン戦略と作品群はデザイナーにとっての基礎知識である。
デザイン評論家・勝美勝がまとめ役になり、プロデューサーとして采配をふるった。
施設ピクトグラムは開会式ぎりぎりの作業であったという。勝美氏によって招集された若きデザイナー11名。そのリーダーが田中一光だ。

田中一光がリーダーとなり制作されたピクトグラム作品は上記で紹介。
以下の図版を御覧あれ!  誰しも類似性に気付くだろう。
(2020年東京オリンピックのパクリデザインというばわかり易いかな。)

田中一光デザイントイレピクト
田中一光 ピクトグラム
▲ピクトのトレースは田中がプロの技で制作しました。
田中一光氏が制作した1963年は全て手書き。大変な労力です。

【お願い】実物が見あたらない。探している。ぜひご協力を!
ご存知の方、当サイトのメールで連絡ください。

このサインを探しています。
現状の洗面所は既製品のピクトグラムに置き換わっていて、竣工時の田中一光作品がありません。
館林の「お宝」になる文化遺産です。探しましょう。
仮に失われていたら、再現して展示すべきです。
全国の美大・デザイン専門学校グラフィックデザイナーの卵たちにとって、田中一光作品を学習できる貴重な施設になります。

(2017年5月1日アップ)

【お読み下さい】 2017年11月------WEBマガジン記事として公開!-----
[定  説] トイレ・ピクトグラム(絵文字)のルーツは1964年東京オリンピック。
[新発見]ルーツは1年さかのぼり.1963年館林市庁舎ピクトグラム。

※WEBマガジンはコチラ。http://tabizine.jp/2017/10/29/156795/
    ●
【記事掲載までの経緯】
トイレのピクトグラムが世界的に普及したのは
東京オリンピックのピクトグラムというのが定説です。
これは我々世代のデザイナーでは常識でした。

デザイン制作は1964年春から夏でした。
一方、館林市庁舎はオリンピックの前年1963年6月竣工。
館林市庁舎のトイレピクトグラムがそのルーツであることは明白。
これは発見でした。

この特設ページを日本デザインセンターの広報担当者が読んでました。(スゴイ)
日本デザインセンターは広告制作会社として知名度、実績ともの日本の最高峰です。
亀倉雄策、原弘、田中一光らによって設立された歴史のある会社です。
(私も28歳の時に僅かな期間ですが在籍。伊勢丹が担当でした)

その日本デザインセンターが私の発見(トイレピクトグラムのルーツ)をキャッチし、他の人々に紹介していたのです。

話しは替わって。----------------
ライターで坂本さんという方から連絡があり、
トイレのピクトグラムのルーツを調査していてWEBマガジンに記事を発表したいとのこと。
取材過程で東京オリンピックのピクトグラムは田中一光が制作担当と知り、日本デザインセンターへ調査の依頼をした。
そこで、広報担当者から私のホームページを紹介されたので連絡があったわけです。
以上の経過で生まれた知的好奇心あふれた記事を是非お読み下さい。

(2017年11月7日アップ)

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