ギャラリー/館林城・城下
大手門(追手)から千貫門前の広小路までの城内メインストリート。大名屋敷が連なる道路の意味なので、本来は大名が沢山集まっている江戸にしか使用されない名称だ。江戸で大名小路といえば丸の内だ。丸の内界隈に譜代・親藩の屋敷が24も集まっていたからだ。他の城下町で大名小路なる名称を名乗る所を寡聞にして知らない。
江戸時代にそんな大それた名称をつけて、幕府からにらまれたら大変だ。
しかし、館林には幕府に口出しさせない人物がいたのだ、ご存知、綱吉だ。五代将軍なのだから誰も文句を言えない。本来「大名小路」なる名称は、江戸でしか意味をなさない名称だが、将軍である綱吉公の城下に使用してもなんの憚りもなかった。
館林藩主・
綱吉の重臣たち(家臣といっても大名クラスの人たちが沢山いた)の屋敷が軒を並べていたのが大名小路だ。
城代家老の金田遠江守正勝(金田さんの屋敷は二の丸)、室賀下総守正俊、曾我伊予守包助、黒田信濃守用綱、杉浦大隅守政清等の重臣が館林に屋敷を構えていたのだ。壮観。重臣たちの知行は3千石〜7千石だが、位階は従五位下、官職は国守なので、皆さん大名クラスなのだ。大名小路と名付けても異論はない。
しかし、戦後、この由緒正しくスケールの大きな地名は町名変更という(今になって思うに、文化の断絶を招いた政策)条例により消滅した。
子曰く「過てば、すなわち改むるに憚ることなかれ」だ。 速やかに、もとにもどそうよ。
郵便や行政の書類などめんどうなこともあるだろうが、なんとかなるだろう。だって、昔それを実行したのだから。今やらないと、旧町名を知っている人がいなくなってしまう。旧町名をリアルに体感している世代が生きている間に旧に復したいものだ。
驚くべきことに、大名小路の道幅は現在の2倍の広さだった!
道の両サイドには歴代家老格重臣の邸宅が軒を並べ、城内における最も枢要の地であった。 (綱吉時代の大名小路がそのまま残っていたら、全国から観光客が押し寄せるだろうな、きっと)
大名小路の中間に、防御のための土塁と石垣が築かれている。そして堀によって分断された構造となっている。
その堀は、明治以後埋められて、現在の5号道路ができた。明治7年大名小路から出火した火事は強風にあおられ大火となり城の半分を焼き尽くした。それ以来道幅も現在のサイズに改められた。(2012/08/03加筆)
大名小路は我が家の屋号になっている。私の両親が結婚し所帯を持った場所がこの大名小路。昭和16年のことだ。
以来、我が家は親戚の間で大名小路として通っている。館林では親戚の家を名字で呼ばないで地名で呼ぶ場合が多いのだ。親戚なので名字が重なるからだろう。私の親戚の呼び名として、たとえば、「裏宿」「三林」「赤羽」「早川田」「新田」「板倉」・・・などなど。
昭和25年に大名小路から鷹匠町へ移転したにもかかわらず、ずーっと「大名小路」のままだ。私が生まれたのは鷹匠町なので違和感を感じるが、「大名小路」の響きがよいので気に入っている。
弘化3年(1846年)の大名小路。(資料:館林市史特別編第2巻415P)
秋元家家臣山田喜太夫の妻・音羽が描いた道中記「お国替絵巻」より。(山田秀穂氏所蔵)
城内のメインストリートらしく、大八車で荷物を運ぶ者や、物売りの商人、そば屋の出前の配達人、そして裃を着て正装した武士がお供の者と歩いている。武家屋敷は瓦つきの門と塀で囲まれ、中には庭園と母屋も描かれている。通りの奥には防御のための土塁と石垣が描かれている。土塁には櫓などの構造物はなく、松の木が植えられている。 山田さんの奥方は本当に絵がうまい、人物描写がいい。遠近法も取り入れていてわかりやすい。人物の吹き出しもいい。
上の絵とほぼ同じ位置から撮った現在の大名小路(2012年3月25日撮影)交差点の場所に土塁が築かれていた。(現在の5号道路)
この両サイドに藩の上士の屋敷が建ち並んでいたなんて、現状からはちょっと想像できない。もう少し何とかならないか、この場所に家を建てる人がいたら、ぜひ武家屋敷スタイルでお願いしたい。
徳川時代、現在の道幅の2倍の巾があった。
(絵図面:館林御城図 大名小路部分(徳川綱吉時代) 国立国会図書館蔵より)
大名小路が城内のメインストリートだったのが一目でわかる。途中の石垣は実際の縮尺ではちょうど中間になる。
昔の図は、感覚を重視していて、大切な所を大きく描く。(感覚重視の作画法)
この絵図は綱吉時代のものだが、幕末の秋元時代もほぼこの通りの構造となっている。大名小路と現在のモスリン新道が間違えやすいので、古図にモスリン新道を加えました。(2012年4月15日)
大名小路(2012年3月25日)。館林商工会議所の看板の少し先が、私の両親が所帯をもった場所。姉たちはそこで生まれている。 昭和30年頃は、それなりににぎやかな通りだった。明治43年、モスリン新道ができてから東西を横断する幹線道路として役割は終わってしまった。
大名小路の終点。大手門から東に直進し突き当たって右折すると、そこは千貫門へ至る最初の門・丸戸張門へつながる。
寛文3年(1663年)
綱吉は日光参詣の帰りに館林城に入城。大名小路を通り千貫門を抜け本丸へ。綱吉が館林城に入ったのはこの数日間だけという。