ギャラリー/館林城・城下
加法師(かぼうし)から館林城内への出入り口。綱吉時代の絵図面を見ると、城内を守る門と城下を守る門の二重構造になっており、東北からの仮想敵国(伊達家)への守りを固める重要な門であることがわかる。綱吉時代の絵図をもとに描いたイラストでその構造がわかりやすく読み取れる。榊原時代も変わらないはず。
加法師【かぼうし】町名の由来:地元にはなじみのある地名だが、それにしても不思議な響きの町名だ。仏教用語でもないらしい。
昭和17年発行の「館林町誌稿」(福田啓作編)によれば、この町名は相当古くから存在し、赤井氏当時にも加法師との記述がある。加法師は寺院に関係のある町名でなく、法師は当て字。古記録には加保志等とあり、あるいはアイヌ語の「カッパ、ウシ」から転じた説もある。カッパは水神の意味であり、ウシはその場所を示す。カッパウシは水神を祀る所の意味。その昔、矢場川が近くを流れていて裏宿より下早川田(しもさがわだ)まで、一面の沼田であった。水害を鎮めるための水神を祀った所から、この名称が起こった。との記述を見つけた。アイヌの昔から・・・・・ロマンだね。
ちなみに、伴木と目車町もアイヌ語が起源とされている。(2012年8月3日加筆)
絵図面(上):館林御城図(国立国会図書館蔵) (下):館林城絵図 館林市立資料館蔵(進藤家旧蔵)より。田山花袋の旧居は石川宗内の屋敷だったところ
「秋元時代の加法師口付近の現況」2012年6月24日撮影
秋元時代の加法師口門の場所に石碑も看板も案内もない。地図と絵図面を見比べ現場を歩き、調査。場所の確定は田山花袋の旧居の場所が特定されており、その場所と秋元時代の絵図面を見比べて判断。謎解きはわりと簡単に解決。この場所は中学生時代の通学路なので土地勘があるのが大きい。わかって当然か。M宅くんの家の近くでもありなつかしい。
上の写真の公園は門の入り口の広場の場所。公園の西側にあるつつじ観光バスの駐車場が堀と土塁のあった場所だ。
[田山花袋の旧居跡]総郭の裏宿(現・城町)
以前はこの場所に田山花袋の住居があった。1981年(昭和56年)に第二資料館に移築されてしまったが・・・。
中学時代(1966年頃)に訪れたなつかしい場所。その時は別な人が住んでいて普通に生活していたので家の中を見るわけにはいかなかった。
秋元時代の絵図には、石川宗内(17俵二人扶持、田山家とは親戚)の屋敷であった。明治12年、田山家は石川家の屋敷に移転。花袋は明治12年4月から19年7月までの7年間(花袋の少年時代)この屋敷に住んだ。明治19年に田山家は一家で上京した。
絵図面によれば、田山家の北側が馬場になっていて、その先は土塁と堀。
「田山花袋の旧居跡に立ててある看板」
田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日(明治4年12月13日) - 1930年(昭和5年)5月13日)は、自然主義文学の文豪。本名、録弥(ろくや)。館林生れ。 『布団』、『田舎教師』が有名。日本全国の温泉にも精通し紀行文多数。明治を代表するジャーナリストでもある。上毛かるたでは「誇る文豪田山花袋」。