ギャラリー/館林城・城下
館林市鷹匠町833番地(1960年代に町名変更で消失)、私が生まれた場所だ。だれでも生まれた場所には特別な思い出があるものだ。町の隅々まで思い出が詰まっている。
鷹匠町は鷹匠が居住していた町である。私は鷹匠町生まれだが、鷹匠とは何の繋がりもないし、周りの住人も鷹匠とは無縁だった。徳川幕府は創業者・家康が大の鷹狩り好きなので、その伝統が徳川家と家臣に受け継がれている。(綱吉が生類哀みの令で鷹狩りを禁止させたが、その後、吉宗が復活。)
鷹匠町は鷹を訓練したりする場所でなくて、鷹匠という役職の役人の邸宅だった場所だ。鷹を訓練する場所は、「鷹場」といって別にあった。 しかし、鷹匠の屋敷があったのは、榊原康政時代だったらしい。その後、鷹匠はいなかったようだ。(「館林町誌稿」より)
上の絵図は尾曳神社所有の絵馬。下の絵図面は館林御城図(徳川綱吉時代) 国立国会図書館蔵より
現在の鷹匠町(2012年3月25日撮影)。
小学生のころの遊び場だった。よくこの塀の瓦屋根に乗って遊んでいたのだ。その時にだいぶ瓦を痛めたと思う。ごめんなさい。しかし当時の大人は誰も注意しなかったなあ、落ちたら危ないと言われたけど。怒られなかった。「三丁目の夕日」世代なので、みんな生きることに夢中だったのだろう。右上の石造りの倉のある家は、1学年下のKくんの家だった。(Kくんの家は映画館・キネマの隣にあった館林で有名な中華料理店の経営者だった)
左下の門をくぐると同級生K林さんの住まいがあり、その奥に江戸時代、館林の城下町を治めていた二家の検断(青山家と小寺家)のうちの小寺さん家があった。瓦屋根の大きな2階だての家で鷹匠町の町並みによく似合っていた。(注:検断とはいわば、町の大名主のようなもの。町人だが、名字帯刀を許されており、代々世襲であった。その仕事がら古文書や絵図など館林城下の資料が残されている)左上の家の奥に、私が生まれ育った家があった。そこが鷹匠町833番地。
平成16年(2004年)開館。【公開日】土・日・祝日 【公開時間】午前10時〜午後5時 【無料】
館林市大手町4-10 公開時のもお問い合わせ;0276-72-0178
【概要】外伴木(現在の尾曳町)から移築した館林藩の中級武士の住宅。廃藩後は旧藩士・山田家の住宅。(山田家は尾曳神社から徒歩5分ほどの場所にあり中学の学区内だったのでよく知っていた。)移築にあわせて、元からこの敷地にあった長屋門や付属住宅を修復。同時に塀も整備。愛称として「武鷹館」とした。
「武鷹館」は、こどものころは南小学校の同級生Aさんの住まいだった。(1960年代当時はA銀行の社宅として使用されていた)長屋門をくぐり母屋を訪問したこともある。長屋門を入ると大きなヒマラヤ杉があり陰影のある佇まいで、母屋もいかにも昭和の風情のある造りで味わいがあった。玄関は細かな縦の桟が入ったガラスの引き戸だった。長屋門の壁の色も白色でなくて青みがかったグレーだったと記憶している。(印刷の用語でいえば、C40+M15+Y10が近い色)長屋門の中は当時は物置になっていてホコリだらけで遊び場にもならなかった。 長屋門の左側は新たに付け加えられたものだが、雰囲気が揃っていて良い。
「武鷹館」の中庭。この敷地はA石さんの家と、隣のY田貝さんの家をまとめた敷地 。庭がすこし寂しい。雑草を押さえるための砂利の面積をへらして、武家屋敷の庭を再現してくれれば、もっと落ち着いた雰囲気になるのに惜しい。
話題はかわるが、館林藩士の多くは、明治になると東京へ出て行ってしまう。伊王野家しかり、田山家しかり、わかるような気もします。
現在の鷹匠町(2012年3月25日撮影)三の丸方面をのぞむ。
右手に市の観光施設「武鷹館」。この景色を修景して、もっと落ち着いた味わいのある町並みにしてほしい。私が生まれ育ったのは
「武鷹館」の対面の家の二軒左奥に入った家。この場所は私のホームグランドなのだ。子どもの時はありふれた日常の光景と思っていた町並みが、失ってみて初めて、その大切さに気付いている。
こどもの頃、この敷地の一部が同級生T君の自転車屋さんだった。対面のブックオフの駐車場の一角に同級生・K君の八百屋さんがあった。
完成した当時(1980年代中頃)はこの建築の良さが理解できなかった。東京の著名な建築家が館林の風土を調査してこんな感じが館林にはぴったりだよ、と言っているようで、前近代を押しつけられたように感じてしまった。だって外観の外壁も屋根もまったくありふれた素材だったし、しかも外観が南小学校と似ている。内装の壁は大谷石(隣の県の名産)。ジャズ大好きな私は当時、吉祥寺に住んでいて、野口伊織さん率いるファンキー系列のお店に足繁く通っていた。野口さんの店はジャズにふさわしいアメリカナイズされたものだった。それは東京にいながら、アメリカにいるようで居心地の良い空間だった。「ロートルメゾン西ノ洞」をニューヨークにして欲しかった。大谷石でなくて味わいのある赤煉瓦にしてほしかったのだ。(当時は本当にそう思っていた)
この建物の良さがわかったのは50歳をこえてからだ、理由はくどくなるので言わない。今は「これでいいのだ」と思っている。つくってくれてありがとう。感謝です。
オーナーは子どもの時のかかりつけ・K病院のお嬢さんだ。設計はあの有名な「Team ZOO アトリエモビルの丸山欣也」建築学会賞を受賞した象設計集団の沖縄名護市庁舎の設計にも参加した。やはり、よく考えられている。年数を重ねてますます輝いている建物は設計とオーナーの管理のたまものだ。本当にありがたい。
(注;象設計集団は1970年代から活躍した設計事務所。風土に根ざした建築をめざしており、その考えは今の時代を先取りしている。)
その後、小布施の修景事業を何度か調査して、「西ノ洞」の建築が目指していたことの正しさとその先見性が理解できたのだ。