ギャラリー/館林城・城下
現在、館林城のシンボル的な門。三の丸への入り口にあたる。藩士の通用門であった。
大正7年(1918年)に秋元家によって復元された。昭和25年に秋元家から三の丸が町に寄付されることになったが、その前年に理解に苦しことに土橋門は壊されたしまった。その後、同じ場所に四本の柱と扉だけの黒い簡素な門(通称・黒門)が作られた。昭和55年強風で倒壊したため、昭和57年(1982年)新たに土橋門の復元が行われた。総工費3500万円。昭和58年3月に完成した。
土橋門正面(上)、門の内側は防御のために枡形になっている。井戸も復元されている。(2012年3月18日撮影)
土橋門と連なる土塁。門の近くのみ土塁の上に瓦つき土塀が再現されたがもともとは土塁を囲むように連なっていた。さぞかしきれいな佇まいだったろう。中学時代(二中テニス部は当時、校内にテニスコートがなくて、三の丸に2面あったコートで練習していた)の部活でこの土手の上を何周も走らされた思い出がある。
復元工事のさいに発掘調査をした結果、門の周辺に3基の井戸が確認された。その内の一つを復元した井戸。
土塁は江戸時代からのもの。蔀土居の上に鉄砲狭間のある土塀を復元した。
蔀(しとみ)土居とは敵が侵入したさいに、内部が見えないように目隠しの機能をもたさせた土居(土塁)
土塁の基礎の石垣は三の丸の周囲を一周していた。石の表面の3倍ほど中に長い形状がよくわかる。
この写真の基礎石は途中で撤去されている。撤去された貴重な石垣はどこへいってしまったのだろう。
三の丸は明治維新後、民間に払い下げられた後に、明治12年に旧藩士たちが保存のために買い戻し、明治27年に秋元家へ献納。
大大正7年秋元家は土橋門を復元(下の写真)。昭和24年取り壊し。(その時に城跡保存の運動が起きる)昭和30年、黒門とよばれた4本の柱と扉だけの門が建てられた。(下の写真)
昭和55年強風で倒壊。昭和57年(1982年)市の観光事業の一環として、新たに土橋門の復元が行われた。復元に先立ち発掘調査を行い近世の城絵図などを参考にして設計。門の形態は控え柱とくぐり戸のある薬医門とよばれるもの。屋根は出土した瓦を参考に切り妻屋根の本瓦葺き。門の復元と同時に土塁上に城壁を60メートル(幕末は約300メートルもあった)復元し、鉄砲・弓などの狭間(小窓)も付けた。昭和58年(1983年)3月完成。(出典:「館林城と中近世の遺跡」150,151頁)