大道寺

【大道寺】

寺伝によれば北条氏の家臣・大道寺式部小輔を中興とし、その名から大道寺としたという。綱吉時代(延宝年間)に描かれた城絵図によれば、善導寺敷地内に大道寺の前身で見松院という別院が描かれている。見松院は善導寺の役寺としてその寺務諸役をつとめた。明治年間善導寺から離れ独立した。国学者で天保8年(1837)越後柏崎で乱を起こした生田万(よろず1801〜1837)父祖の墓(市史跡)や、田山花袋算術の師・戸泉鋼作の墓がある。
本堂雨樋に大給(おぎゅう)松平家「一ッ葉葵」紋が付けられており、館林の歴史を感じさせる。
(2018年1月3日アップ)
大道寺一葉葵紋▲大道寺ご住職が高校の後輩にあたる方で大道寺撮影中にお会いできて話をしてました。
坪井住職からお堂に残る紋の出所が不明なので調べて欲しいと頼まれました。
さっそく一枚の葵の紋を調べることに。

榊原康政が館林城を築城して50余年館林を納めたその後を引く嗣いだのが大給松平家だ。
一ッ葉葵紋は大給松平家が使用していた家紋と判明した。
大道寺と大給松平家との繋がりを示す証拠の家紋。

(2018年1月26日追加アップ)

△ページの先頭へ