井上正春(まさはる)在城年数9年(1836〜1845 )父の不祥事を挽回した藩主。 

井上正春( いのうえ まさはる) 浜松藩主であった父の不祥事で文政3年(1820年)棚倉藩へ藩主となる。天保5年、寺社奉行となり、 天保7年(1836年)松平斉厚が浜田藩に転ずるや館林城主となる。天保11年、老中となる。
弘化2年、あの天保の改革で失敗した水野忠邦が謹慎となり、息子・忠精が浜松から出羽山形へ左遷。出羽山形の藩主秋元氏が館林へ、ところてん式に館林藩主・正春は元の浜松藩へもどることになった。
教科書でならった天保の改革が意外なところで館林と関係している。歴史は面白い。
(詳しくはwikipedia-井上正春を参照)

 生誕 文化3年(1805年)
 死没 弘化4(1847年)42才
 父母 父:井上正甫
 官位 従四位下侍従、河内守
 藩  棚倉藩主)、館林藩主、浜松藩主、

【三河井上氏と浜松】
井上氏は尊卑分脈によると清和源氏頼季流とされる。信濃国高井郡井上を本貫として井上氏になったとしている。その流れを組むのが三河井上氏。久しく浜松を領有していたが、父・正甫が狩りの途中で農民の妻に暴行を働いたことが幕府に発覚、悪地で知られる陸奥棚倉に左遷されていた。正春はそんな中、藩主を継ぐ。幕府においては寺社奉行、大坂城代を手堅く務め、徐々に栄転してゆくすなわち、天保7年(1836年)仙石騒動で老中松平康任が石州浜田から棚倉に左遷されると、押し出されて上州館林に入り、更に弘化2年(1845年)、老中水野忠邦が天保の改革に失敗して浜松から出羽山形に左遷されると、その後釜として、実に28年ぶりに井上氏が浜松に復帰するのである。
ところで、館林から浜松への復帰は意外な副産物を浜松領民にもたらした。館林は関東における繊維流通の代表的な地域で、後年井上氏が浜松藩に復帰すると浜松の名産・遠州木綿に先進地館林の機織技術が加わり、笠井綿(加西綿)として飛躍的な発展を遂げたのである。浜松木綿だけではなく、綿糸を利用した浜松織物の生産も順調に拡大した。
(この記述はウィキペディアより)
館林の繊維業界は浜松より進んでいたことがわかる。