榊原氏館林藩3代藩主・榊原忠次(ただつぐ)在城年数28年(1615〜1643)

榊原忠次 / 大須賀忠次(さかきばら ただつぐ / おおすか ただつぐ)榊原氏館林藩3代藩主
(詳しくはwikipedia-榊原忠次を参照)

 生誕 慶長10年(1605年)
 死没 寛文5年(1665年)
 父母 父:大須賀忠政、母:松平康元の娘(徳川家康の姪)
 官位 従四位下侍従
 藩  上野国館林藩主、陸奥白河藩主、播磨姫路藩主。

榊原康政の長男で2代藩主康勝の兄・忠政の長男として生まれる。榊原康政の正室は大須賀家の娘。大須賀家は(康政の盟友で徳川20傑)継嗣がなく、康政の長男・忠政が大須賀家の養子となる。
2代藩主康勝が26歳の若さで継嗣無くして死去した。このため、榊原氏は断絶の危機に立たされたが、徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した家康の命により、10歳で榊原氏館林藩10万石を相続した。これにより、大名大須賀氏は絶家となった。
元和2年(1616年)徳川家康が死去。翌元和3年(1617年)日光東照宮に改葬された。遺骸は静岡の久能山から日光へ移され、家康の棺は館林城下を通過。その時の先導役を忠次が引き受けた。
寛永20年(1643年)白河藩14万石に転封。榊原家による52年の治世が終了した。榊原忠次はその後、姫路藩15万石に国替となり、寛文3年(1663年)には保科正之の推挙により、井伊直孝の死後、幕府の老職(大政参与)に出世していった。

忠次の事跡

1)日光廟の造営に参加
2)内蔵新田の開発 家臣・清水内蔵之充に命じ伊奈良村内蔵新田(現・板倉町内蔵新田、籾谷あたり)を開拓。
3)つつじの移植 花山のツツジのルーツはここにあった。
寛永4年忠次は新田荘田島郡の宮下氏に請い、同地の花見山より新田左中将遺愛のツツジを躑躅ヶ岡の地に移した。その数808株という。新田の荘の宮下さんが育てたツツジを移植したものだった。(宮下伝記による)
4)1万石加増されて、11万石となる。
(2012/08/21 追記)

その後の榊原家

江戸時代中期の榊原家の当主・榊原政岑(まさみね)は徳川宗春の同志として、江戸の新吉原に通い詰め、三浦屋の名妓・高尾太夫を1,800両(2,500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。この所業は、倹約令(享保の改革)を出していた8代将軍・徳川吉宗の逆鱗に触れ、榊原家の危機となったときに、家康が康政に下していた神誓証文を、幕府に差し出し嘆願したところ、表高は同じ15万石で、越後高田藩に懲罰的移封処分という軽いお咎めで済んだという効果があった。榊原政岑は寛保3年(1743年)に死去。享年31。その後、榊原家は越後高田藩(15万石)で幕末まで続いた。